私も含めて日本人はなぜ、仏像を拝しに来るのだろう。 多くの人は単に仏像を見るだけであり、印相や仏像の顔かたちについての 知識は皆無に近いのであろう。如来、観音、菩薩の違いさえ分かっ ているか 心もとない。しかし、陰翳のある祭壇に拝礼するだけで満足して終 わる。 それは幼いころ、父母に連れられ、真剣に仏像に対峙している親の 姿からの 心の習いだけなのだろうか。 曹洞宗の禅問答に以下のようなものがある。 仏像とは何か・・・? 月を(ゆび)さす指の如し。 その心は・・・? 月がわかれば指は要らない。 でも、月がどこにあるかわからない人には、その方向を示す道標なのだ。 日頃の生活の営みからこどものころ植え付けられた日本文化のDN Aのようなもの があるのかもしれない。千年以上前、仏教が新しい神として大陸から持ち込まれた時の記述が面白い。 それは、日本書紀による「欽明天皇13年に百済の聖明王は「釈迦仏の 金銅像一躯経論若干巻」を贈ったとされることがその始まりなので あろう。 欽明天皇は歓喜し、 「西蕃のたてまつれる仏の相貌端厳にして、またら未だかって有ら ず。 うやまうべきや否や」 と問うた。 ここでは、仏を「蕃神(あだしくにのかみ)」と呼び、仏は新来の神の1つであって、 従来からの在地神と質的に相違するものと考えなかった。 また、天皇が仏法に心を動かされたのは、仏像の端厳とした輝きの ためであり、 教えの内容にではない。 という。さらには、原始仏教(人生の苦の原因である愛欲を断ち切ること)から大乗仏教への進化 を考える必要がある。大乗仏教では、もっぱら釈迦の存在を超歴史 化、超人化して、 人間とは違う如来や薬師、大日、阿弥陀などの多くの仏を創りだした。これらのことにより、 仏教は、初めて宗教と言える形となっていった。この倫理的な仏教 から宗教となった 仏教への変化の中に、像の成立が大きな役割を担っているのは否定 できない。 今日、われわれが仏教というものを考えるとき、仏像を持った仏教 を考える わけであるがその仏経は釈迦仏教から大分変化したわけである。 超人的な仏に礼拝するという大乗仏教の思想があった。 これらが日常感覚的な想いとして長く日本の中で醸成され、心根に深く刻まれてきた。例えば、顕著な例が大正6年、和辻哲郎氏が奈良の古寺の仏像の美に感動し、 「古寺巡礼」を書きヨーロッパ的教養で仏像を見る新しい仏像観賞の道を見せ、 彼のその後の日本文化への関心がその仏像との出会いによって決定
されたと言われる。 その和辻哲郎の「日本精神史研究」にはそれが明確に描かれている
。
「上代における日本人は、ただ単純に、神秘なる力の根源としての仏像を礼拝し、 現世の幸福を満たすものとしての意識程度であるが、現世を否定せ ずして、 しかもより高き完全な世界を憧れる事が、彼らの理想であった。 現世は、不完全との認識を持っているが、憧憬するのは、常世の世 界 であり、死なき世界である。 この時代において、仏教が伝わり、今までの「木や石の代わり」に 今や 人の姿をした、美しい、神々しい、意味深い「仏」がもたらされる 。 魔力的な儀礼に代わりに今やこの「仏」に対する帰依が求められる 。 一切の美的魅力がここでは、宗教的な力に形を変えるのである。 さらに、最初に来た仏教が修行や哲理を説くようなものではなく、 むしろ、釈迦崇拝、薬師崇拝、観音崇拝の如く、現世の利益のため の 願いを主としたことが幸いであった。 また、このような意識は、単に、芸術に関してのみではなく、 日本人の内的生活、思想の進展、政治の発達にも、大きな要素 となって行く。生活文化にも、同様のことが言える」 という。仏像には、如来像から発して、「地蔵菩薩」「弥勒菩薩」「観音菩薩」、など様々な かたちで現世の利益を与えるとの思いで我々は区別なく拝している。しかも 本地垂迹という理屈付でまさに神も仏も区別さえ怪しく崇拝されている。 つまり神と仏の類別意識はないのである。「神・仏」としてのみ意 識する ということで、「神も仏も一つ」というような扱いになっていると言える。 これが日本人の「宗教感覚」なのであり、日本人にとっては「神々 」も「仏たち」も 要するに「繁栄をもたらし」「成功をもたらし」「災厄を除去し」「平安をもたらす」 そうした力、ようするに自然の中に生きている人間に対しての「根源としての自然的力」 の形象化であったということなのかもしれない。しかし、日本では、大乗仏教の発展、空海の密教の拡大により、「釈迦如来」 よりも、「大日如来」を中心とする仏教思想が本流のようになる。 あらゆる宗教は、現世利益を追求したものであるが、地獄、極楽図 が 衆生の中で、その存在を高めているのは、彼岸救済、すなわち、死 んだ後の 自身の安寧が強いからでもある。 このため、法然や源信により、「阿弥陀如来」が仏教の原点と説か れるが、 最近は、日蓮が説いた現世利益追求の「薬師如来」が仏教の原点としてみなされてもいる。 個人的には、仏像を仏教の教えの具現化されたものと考えれば、大差はないように思うが。 例えば、日本人の神の在り方を説明するのによく引用されて有名な
ものに 西行法師が伊勢神宮(天皇家の祖先神が祭られている日本の代表的神社)に 行った時の歌があるのですが、その内容は 「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」 つまり「誰がいらっしゃるのか知らないけれど、なんとなく神々し くて涙がでるなあ」 などというものであった。西行法師ほどの知識人(鎌倉時代を代表 する歌人の一人。 もともとは武士であり鳥羽上皇に仕えていたが、後に出家し諸国を 遍歴した) がこの伊勢神宮の神様(内宮が天照大神、外宮は豊受大神)を知らない とは絶対にあり得ないといえるし、ようするに西行法師がいいたか ったことは、 日本人にとって「神」ということで大事なのは「名前」ではなく「 神々しさ」なのではないか。 天照大神といえば天皇家の祖先神なのですから誰でも知っていて不思議はないのに、 こう言われてしまうほどだ。ですから一般庶民がここに祭られている神を知らなくても あまりとがめられないし、仏についても同じ意識があるのでは、と思われる。 これは「更級日記」の記述にもある。そこでは、 「常に天照御神を念じ申せ、という人あり、いずこにおわします、 神・仏にかはなど……」 (いつも天照大神を拝みなさいという人がいるけれど、だけど、ど こにいるんだろう…… 「神」なんだか「仏」なんだか?………)などと言われている。 このように、仏像を少し深く考えるとしたなら、1つの寺が醸し出す詩的なムードや一時代 を支配する時代精神ではなく、むしろ日本で作られた仏像の背後にある精神への理解なのかもしれない。 その仏像の背後にいかなる思想があり、いかに日本人に崇拝され、いかなる意味を、 いまのわれわれに暗示するのか、それは場所でもあり、時代もあり 、種類もある。 阿弥陀仏は、奈良時代では、主として説法している姿で表わされ、平安時代では座って沈思黙考 をしている姿で表わされ、そしてさらに鎌倉時代以後は、立って念仏者を迎えている姿で表わされる。 このことはたしかに形の変化であるが、しかしそれは形の変化ばかりではなく、仏教思想 浄土思想の変化であるばかりか、そのように阿弥陀仏を変化させなければならなかった、 人間の心そのものの変化なのである。われわれは、結局仏像に対して自己の心でふれるよりほかないのであろう。 我々の個性が無数に複雑であり、われわれの人生が無限に異なるように、仏像に対する われわれの感動も、日にあらたなはずである。だが、とかく主観的な感動は客観的な仏像の持つ意味と食い違いことがあ る。 特に古都の仏像に伴う深遠で神秘的なムードは、仏像とその仏像の持つ教えの差異に 対してほとんど注意を促すことなく、一様に、ただ甘美な陶酔に人を誘い込みがちである。 さらには、あるべき場所から展示と言う目的で、どこかの美術館などに移され、 仏像をみては、多くの人は満足するが、美術品と観賞する場合と心のよりどころを求めるのは、 大いに違いがあるはずであり、それを混同してはならない。以前に湖北の十一面観音を拝しに行った折、井上靖が書いたと同じ言葉を聞いたことがある。 大王冠を戴いてすっくりと立った長身の風姿もいいし、顔の表情もまたいい。 観音像であるから気品のあるのは当然であるが、どこかに颯爽たる ものがあって、 凛としてあたり払っている感じである。金箔はすっかり剥げ落ちて 、ところどころ その名残を見せているだけで、ほとんど地の漆が黒色を呈している 。 「お丈のほどは六尺五寸」 「一本彫りの観音様でございます。火をくぐったり、土の中に埋め られたりして 容易ならぬ過去をお持ちでございますが、到底そのようにはお見受 けできません。 ただお美しく、立派で、おごそかでございます」 この地域は長年十一面観音などを自分たちで守ってきた。これが仏像を拝す時の 心根だと思う。仏像はあるべき場所、それを守る衆生の中で見るべき、と個人として思う。 われわれが人生の途上でふと出会った人が、われわれの一生を支配し、決定すること がある。一生に何回かわれわれは、自己の運命を支配する人に出会う場合があるが、 時とするとわれわれは仏とも運命的な出会いをすることがある。 和辻哲郎氏の奈良の古寺の仏像がそうであろうし、 亀井勝一郎氏の中宮寺の弥勒菩薩 との出会いもある。その心の変化は井上靖の「星と祭り」にも描かれている。 われわれは、結局仏に対して自己の心でふれるよりほかないのであ
ろう。 我々の個性が無数に複雑であり、われわれの人生が無限に異なるように、仏に対する われわれの感動も、日にあらたなのである。 ーーーーーーーーー仏像はいかにしてあらわれたのか 仏教における仏像の意味すること 人における仏像の意味すること 仏教では、一切は無常であるともいわれている。 常ならず何事も永久ではない。 そう考えると、形あるものがいつまでもそのままの形で残ることはなく、 かたちに造られた瞬間から破壊が始まっていることになる。 われわれは、結局仏に対して自己の心でふれるよりほかないのである。 我々の個性が無数に複雑であり、われわれの人生が無限に異なるように、仏に対する われわれの感動も、日にあらたなのである。だが、とかく主観的な感動は客観的な仏の持つ意味と食い違いことがある。 特に古都の仏像に伴う深遠で神秘的なムードは、仏像とその仏像の持つ教えの差異に 対してほとんど注意を促すことなく、一様に、ただ甘美な陶酔に人日本の神々と仏たち http://www.ozawa-katsuhiko.comを誘い込みがちである。 /07nihon/nihon.html 仏像について http://www.ozawa-katsuhiko.com /07nihon/nihon_text/nihon09.ht ml 仏師の世界 http://www.butuzo.com/sect/ind ex.html 仏像の形は多種多様である。 一つ1つの仏の背後には、生々しい人間の心が隠されている。 曼荼羅は、仏のまとめ方としては、最も、有効である。 仏の最上位にいるのが、4つの如来である。 まず、一番上は、仏教の創始者である「釈迦如来」。 次には、その対極に、「大日如来」となる。 「釈迦如来」は、人間的な立場としての仏であるが、 「大日如来」は、形而上学的(理論的な)な立場としての仏である。 この縦の軸に対して、現世利益を与える「薬師如来」が彼岸救済を 基本とする「阿弥陀如来」と対極的な立場にある。 しかし、日本では、大乗仏教の発展、空海の密教の拡大により、「 釈迦如来」 よりも、「大日如来」を中心とする仏教思想が本流のようになる。 あらゆる宗教は、現世利益を追求したものであるが、地獄、極楽図 が 衆生の中で、その存在を高めているのは、彼岸救済、すなわち、死 んだ後の 自身の安寧が強いからでもある。 このため、法然や源信により、「阿弥陀如来」が仏教の原点と説か れる。 しかし、特に、最近は、日蓮が説いた現世利益追求の「薬師如来」 が 仏教の原点としてみなされている。 曼荼羅は、このように、最上位の仏の位置付けをその根本思想によ り、 明確にすることが可能となる。 更に、この曼荼羅に、菩薩を加えることで、夫々の役割と思想が明 確になる。 例えば、 ・大日如来には、「観音菩薩」「不動菩薩」が密教が作り出した菩 薩として 配置される。 ・釈迦如来には、「文殊菩薩、弥勒菩薩、普賢菩薩」がある。 ・薬師如来には、「毘沙門天、大黒天、弁天」が配置される。 ・阿弥陀如来には、「地獄、極楽、地蔵」が配置される。 日本文化を理解するための曼荼羅での展開 曼荼羅の基本軸を色々と想定することで、日本文化の仏教からの視 点 出の対比検討が可能である。 例えば、大日如来の「観音菩薩と不動」を軸とした場合は、「男性 的なもの」 「女性的なもの」と言う視点で、新たなる考え方が可能かもしれな い。 また、これに、時間軸として「現在、未来、実際的、観念的」の4 軸を 考えると、現状の仏教の姿も見えてくる。 ・仏教の世界観としての「十界」 ①迷界(6道という) 地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界 ②悟界 声聞界、緑覚界、菩薩界、仏界 従来、仏像の観賞方法には、大体2つの方法があった。 1つは、いわば仏像を対象とした叙事詩を綴る方法である。 われわれの人生において、われわれはしばしば人と出会うのである。 われわれが人生の途上でふと出会った人が、われわれの一生を支配 し、決定することが ある。 一生に何回かわれわれは、自己の運命を支配する人に出会うわけで あるが、 時とするとわれわれは仏とも運命的な出会いをすることがある。 大正6年、和辻哲郎氏は奈良の古寺の仏像の美に感動して、「古寺 巡礼」を書き、 ヨーロッパ的教養で仏像を見る新しい仏像観賞の道を教えた。 彼のその後の日本文化への関心がその仏像との出会いによって決定 されたであろうこと は疑いがない。 そしてまた昭和12年、亀井勝一郎氏は転向の罪に傷ついた心を抱 いて、 ふと訪れた中宮寺の弥勒菩薩の微笑みに一切の罪を許す慈悲をみて 「大和古寺風物詩」 を書いた。そして戦後の民主主義のかもしだす俗悪な空気に耐えか ねて、法隆寺を 訪れた竹山道雄氏は、そこに精神の貴族のみが味わうことが出来る 、ロマン的 文化の崇高さを感じて「古都遍歴」を書いた。このような己の精神 の転機にあって、 運命的な出会いをした仏に対する感激を記すことは確かに人の魂を 揺り動かすに 違いない。 そして、われわれは、結局仏に対して自己の心でふれるよりほかな いのである。 我々の個性が無数に複雑であり、われわれの人生が無限に異なるよ うに、仏に対する われわれの感動も、陽にあらたなのである。 だが、とかく主観的な感動は客観的な仏の持つ意味と食い違いこと がある。 われわれが探求しようとするのは、 1つの寺が醸し出す詩的なムードや1時代を支配する時代精神では なく、むしろ 日本で作られた仏像の背後にある精神なのである。 その仏像の背後にいかなる思想があり、いかに日本人に崇拝され、 いかなる意味を、 いまのわれわれに暗示するのか、それは場所でもあり、時代もあり 、種類もある。 仏像として、私が強く意識したのは、十一面観音像であった。 遠い昔、人々は自然に畏敬し白く美しくそびえたつ富士山や白山、 数百年の巨木、 三輪山や厳島の巨岩に神を見ていた。神道や多くの原始宗教と言わ れるものの 成り立ちは数知れない。そして、仏教という新たな外来の神ととも にやってきた 仏像に同じ思いを重ねたのであろう。 彼は、目の前に慄然と立つ三メートルほどの像に取り込まれていた 。ほの暗い 光の中で見下ろすように立つ像が灯の中にゆらりと動く。伏し目が ちの眼にのびやかな 鼻と少し厚めの唇がふくよかな頬の曲線の中にある。人型として対 峙する体は 大地に強く立ち、四方にまろやかな空気を発している、そんな気が した。 三輪山の巨岩、道行く中で接してきた巨木と何が違うのだ。そんな 考えが彼を 支配していた。 多分、この像は一つの実態なのであろうが、見る人、拝む人によっ て形が違う のであろう。今横でしきりと念仏を唱えながら拝む老婆、静かに手 を合わせ じっと仏像に見入る若者、その想いと眼前の姿について彼らに問い たい、なぜ、 どのような、と。 神道紹介の中に次のような一文がある。 多分それは、日本書紀による「欽明天皇13年に百済の聖明王は「 釈迦仏の 金銅像一躯経論若干巻」を贈ったとされることがその始まりなので あろう。 欽明天皇は歓喜し、 「西蕃のたてまつれる仏の相貌端厳にして、またら未だかって有ら ず。 うやまうべきや否や」と問うた。 ここでは、仏を「蕃神(あだしくにのかみ)」と呼び、仏は新来の 神の1つであって、 従来からの在地神と質的に相違するものと考えなかった。 また、天皇が仏法に心を動かされたのは、仏像の端厳とした輝きの ためであり、 教えの内容にではない。 その心持は今の我々と大きな違いはないのでは、と思う。天皇は、 その形に衝動 を受けたのだ。決して経文などの書物に触発されたのではないのだ 。 我々も、十一面観音像を仰ぎ見るときの心根は他の多くの仏像を見 るときのそれと 違いはない。人の形だが、人ではない、遠い昔に祖先が見た安寧と 優雅さを感じる。 和辻氏も、その著の中で以下のような想いを述べている。 「衆生を度脱し、衆生に無畏を施す。 かくのごとき菩薩は、如何なる形貌を備えていなくてはならないか 。 まず、第一にそれは、人間離れした超人的な威厳を持っていなけれ ばならない。 と同時に、もっとも人間らしい優しさや美しさを持っていなく絵な らぬ。 それは、根本においては、人ではない。しかし、人体を借りて現れ ることで、 人体を神的な清浄と美とに高めるのである」。 さらに深く見るには、和辻哲郎の「日本精神史研究」が参考となる 。 「上代における日本人は、ただ単純に、神秘なる力の根源としての 仏像を礼拝し、 現世の幸福を満たすものとしての意識程度であるが、現世を否定せ ずして、 しかもより高き完全な世界を憧れる事が、彼らの理想であった。 現世は、不完全との認識を持っているが、憧憬するのは、常世の世 界 であり、死なき世界である。 この時代において、仏教が伝わり、今までの「木や石の代わり」に 今や 人の姿をした、美しい、神々しい、意味深い「仏」がもたらされる 。 魔力的な儀礼に代わりに今やこの「仏」に対する帰依が求められる 。 一切の美的魅力がここでは、宗教的な力に形を変えるのである。 さらに、最初に来た仏教が修行や哲理を説くようなものではなく、 むしろ、釈迦崇拝、薬師崇拝、観音崇拝の如く、現世の利益のため の 願いを主としたことが幸いであった。 また、このような意識は、単に、芸術に関してのみではなく、 日本人の内的生活、思想の進展、政治の発達にも、大きな要素 となって行く。生活文化にも、同様のことが言える」という。 さらに「古寺巡礼」では仏像の姿に言及している。 「仏像においては、「仏」という理念の人体化を意味している。 その大きなポイントは、嬰児と物菩薩像との眼の作りである。 それは恐らく、嬰児の持つ眼の清浄さ、初々しい端正さが多くの 人々を魅了しているからであろう。 ただ、時代により、その特徴は少しづつ変化する。推古の頬は、 明らかに意味ある表情を含んだ、肉のしまった成長した大人の 顔である。しかし、白鳳時代では、このような表情は全然現れて おらず、成長した人の頬としては空虚であり、嬰児としての 柔らかい頬の円さをもっている。 しかし、我々は、仏像や菩薩像において、嬰児の再現をみるのでは ない。 作家が捉えたのは、嬰児そのものの美しさではなくして、 嬰児に現れた人体の美しさである。宇宙の根本原理、その神聖さ、 清浄さ、など総じて、嬰児の持たざる内容をここに現そうとしてい る のである。作家が表現しようとする仏菩薩像は、経典の説くところ のその理念である。 その円光の中に5百の化仏あり、一々の化仏に5百の化菩薩あり、 無量の諸天を従者とす、、、、ほとんど視覚の能力を超えたもので ある」 と言うが、一般庶民、衆生では具体的な力が必要なのである。 仏像の肉体的な表現には、静かに呼吸している姿勢、つまり気息い きを 吐き出している姿勢が表される。これは法力を吐き出しているのだ 。 そして、そのために横隔膜がぐっと押さえられている表現として、 ちょうど鳩尾 のところに横線を1本入れる。ところが、平安時代の天台宗の仏像 では、このことを 一層強調するために横線を2本入れているようだ。さらに口元など も、法力を 吐き出していることを強調して口笛を吹いているように唇を小さく 細くして、 気息を吐き出している形に作りますし、また頭の螺髪も、法力を発 散させるという 意味で、螺髪のかたちをアンテナのように小さく尖った感じに造っ ている。 「人を形にするが人ではない」、これをどう見せ、どう感じさせる のか、 われわれを含め、仏像には様々な工夫が込められているようだ。 「古寺巡礼」を見れば、そこに和辻氏が見た聖林寺十一面観音の姿 とその 感動が伝わってくる。これはおそらくほかの人も同じなのであろう 。 「切れの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭く ない鼻、 全てわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあと もなければ、 また超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには、 神々しい威厳 と人間のものならぬ美しさが現されている。薄く開かれた瞼の間か らのぞくのは、 人のこころと運命を見通す観自在のまなこである。、、、、、、 この顔を受けて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。 、、、 四肢のしなやかさは、柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現 されていながら、 しかも、その底に強靭な意思のひらめきを持っている。 殊に、この重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのよう にいかにも 軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。 これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである」と。 同様に、百済観音の記述では、 「漢の様式の特有を中から動かして仏教美術の創作物に趣かせたも のは、漢人固有 の情熱でも思想でもなかった。、、、、、、 抽象的な天が具体的な仏に変化する。その驚異を我々は、百済観音 から感受する のである。 人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、それを嬰児の如く新鮮な感動によ って迎えた 過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解 し得るに至った。 神秘的なものをかくおのれに近いものとして感じることは、彼らに とって、世界の光景 が一変するほどの出来事であった。、、、、、、、 百済観音を形成している様式の意義を考えているのである。シナで はそれはいくつか の様式の内の1つであった。しかし日本へ来るとこの様式がほとん ど決定的な力を 持っている。 それほど日本人はこの様式の背後にある体験に共鳴したのである。 百済観音の奇妙に神秘的な清浄な感じは、右のごとき素朴な感激を 物語っている。 あの円い清らかな腕や楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは 、人体の美に なれた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見出した 驚きの心の所産 である。あの微かに微笑を帯びた、なつかしく優しい、けれども憧 憬の結晶のように ほのかな、なんどころなく気味悪さをさえ伴った 顔の表情は慈悲ということのほかに何事も考えられなくなった初々 しいこことの、 病理的とも言っていいほどに烈しい変質を度外しては考えられない 。 このことは特に横から眺めた時に強く感じられる。面長な柔らかい 横顔にも、 薄い体の奇妙なうねり方にも。 こんな見方をする人もいる。 「百済観音が特異であるのは、「技巧の拙なる」がゆえだというの は、見る者の素朴な 感想であろう。 だが、その拙なる故の長身が、どうしたってなんらかの解釈を必要 とせざるを得ない ほど度を越している事実が、我々を困惑させ、立ち尽くさせる。そ して、そうなったが 最後、こちらはいつの間にか像自体に魅了されてしまうのだ。その バランスの異常さに ひかれてしまったことを、後から説明しようとすれば、やはり和辻 のように 内面的なことをキーワードにする以外ない。 つまり、百済観音は見る者の感覚のバランスを崩すのだ、と思う。 その見る者の感覚を危うくする形が、奇妙な作用を生み、解釈を要 求し続けた のである。 薬師寺聖観音では、 「美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。、、、、、、 つややか肌がふっくりと盛り上がっているあの気高い胸。堂々たる 左右の手。 衣文につつまれた清らか下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上 の威厳を 表現したものである。しかも、それは、人体の写実的な確かさに感 服したが、 、、、、、、、、 もとよりこの写実は、近代的な個性を重んじる写生とはおなじでは ない。 一個人を写さずして人間そのものを写すのである」 3例の記述でもわかるが、人体の美しさを追求する中に普段の自分 とは違う何かを かんじさせる、それが力強さであったり、優美さであり、畏怖の思 いでも あったりするのだ。 「十一面観音信仰が庶民の中に大きく根を張って行ったのは、経典 が挙げている数々の 利益によるものであろうが、しかし、そうした利益とは別に、その 信仰が今日まで長く 続きえたのは、頭上に十一面を戴いているその力強い姿ではないか 。利益に与ろうと、 与るまいと、人々は十一面観音を尊信し、その前に額ずかずにはい られなかった。そう いう魅力を、例外なく十一面観音像は持っておられるし、宗教心と 芸術精神が一緒にな って生み出した不思議なものかもしれん。美しいものだと言われれ ば美しいと思い、尊 いものだといわれれば、なるほど尊いものだと思うほか仕方のない もの」 和邇が初めて十一面観音に出会った時の、あの美しいと思った感覚 がするりと 心に宿った。だが、小浜で出会った観音像を見たときの気持ちと大 分違う、それが老師 の言われる言葉で心にしみた。 「十一面観音の持つ姿態の美しさを単に美しいと言うだけでなく、 他のもので理解しよ うと言う気持が生まれるように思う。そうでなかったら頭上の十一 の仏面が異様なもの としてでなく、力強く、美しく、見えるのは、自分がおそらく救わ れなければならぬ人 間として、十一面観音の前に立っていたからなのでしょう」 「十一面観音信仰は古い時代からのもので、日本でも八世紀初めの 頃からこの観音像 は盛んに造られはじめている。この頃から十一面観音信仰はその時 代の人々の生活 のなかに根を張り出しているのである。この観音信仰の典拠になっ ているものは、 仏説十一面観世音神呪経とか十一面神呪経とか言われるものであっ て、この経典に この観音を信仰する者にもたらせられる利益の数々が挙げられてい る。それによると 現世においては病気から免れるし、財宝には恵まれるし、火難、水 難はもちろんの こと、人の恨みも避けることができる。まだ利益はたくさんある。 来世では地獄に 堕ちることはなく、永遠の生命を保てる無量寿国荷生まれることが 出来るのである。 また、こうした利益を並べ立てている経典は、十一面観音像がどの ようなもので なければならぬかという容儀上の規定も記している。まず十一面観 音たるには、 頭上に三つの菩薩面、三つの賑面、三つの菩薩狗牙出面、一つの大 笑面、一つの仏面、 全部で十一面を戴かねばならぬことを説いている。静まり返ってい る面もあれば、 憤怒の形相もの凄い面もある。また悪を折伏して大笑いしている面 もある。 いずれにしても、これらの十一面は、人間の災厄に対して、観音が 色々な形に おいて、測り知るべからざる大きい救いの力を発揮する事を表現し ているもの であろう。 観音が具えている大きな力を、そのような形において示しているの である。 十一面観音信仰が庶民の中に大きく根を張って行ったのは、経典が 挙げている数々の 利益によるものであるに違いないが、しかし、そうした利益とは別 に、その信仰が 今日まで長く続きえたのは、頭上に十一面を戴いているその力強い 姿ではないかと、 加山には思われる。利益に与ろうと、与るまいと、人々は十一面観 音を尊信し、 その前に額ずかずにはいられなかったのであろう。そういう魅力を 、例外なく 十一面観音像は持っている。 それは例外なく、宗教心と芸術精神が一緒になって生み出した不思 議なものであった。 美しいものだと言われれば美しいと思い、尊いものだといわれれば 、なるほど 尊いものだと思う意外仕方のないものであった。十一面観音の持つ 姿態の美しさを 単に美しいと言うだけでなく、他のもので理解しようと言う気持が 生まれたように 思う。そうでなかったら頭上の十一の仏面は、加山には異様なもの 以外の 何者でもなかったはずである。それが異様なものとしてでなく、力 強く、美しく、 見えたのは、自分がおそらく救われなければならぬ人間として、十 一面観音 の前に立っていたからであろうと思う。救われねばならぬ人間とし て、救う ことを己に課した十一面観音像の前に、架山は立っていたのである 。」 3)白洲正子の「十一面観音巡礼」より この本のあとがきは、中々に面白い。 「私にとって、十一面観音は、昔からもっとも魅力ある存在であっ たが、 怖ろしくて、近づけない気がしていたからである。巡礼ならどんな 無智 なものにでも出来る。手ぶらで歩けるということは、私の気持をほ ぐし、 その上好きな観音様にお目にかかれると言うことが、楽しみになっ た。 が、はじめてみると、中々そうは行かない。回を重ねるにしたがい 、 初めの予感が当たっていたことを、思い知らされる始末となった。 私は 薄氷を踏む思いで、巡礼を続けたが、変幻自在な観世音に幻惑され 、 結果として、知れば知るほど、理解を拒絶するものであることをさ とる だけであった。 私の巡礼は、最後に聖林寺へ戻るところで終わっているが、再び拝 む天平の 十一面観音は、はるかに遠く高いところから、「それみたことか」 というように 見えた。私はそういうものが観音の慈悲だと信じた。もともと理解 しようと したのが間違いだったのである。もろもろの十一面観音が放つ、め くるめく ような多彩な光は、一つの白光の還元し、私の肉体を貫く。そして 、私は思う。 見れば目が潰れると信じた昔の人々のほうが、はるかに観音の身近 に 参じていたのだと。」 白洲氏は、十一面観音を求めて、滋賀や福井、岐阜、奈良などと様 々な 地域を巡り歩いている。旅行で近くに行ったときには、是非これを 片手に ちょっとでも立ち寄ってみるのも楽しいもの。 最後に再び、井上靖の「星と祭」の渡岸寺の十一面観音の記述を味 わって もらいたい。 「渡岸寺と言うのは字の名前でして、渡岸寺と言う寺があるわけで はない。 昔は渡岸寺と言う大きな寺があったそうだが、今は向源寺の管理と なっています。 、、、 堂内はがらんとしていた。外陣は三十五、六畳の広さで、畳が敷か れ、 内陣の方も同じぐらいの広さで、この方はもちろん板敷きである。 その内陣の正面に大きな黒塗りの須弥壇が据えられ、その上に三体 の 仏像が置かれている。中央正面が十一面観音、その両側に大日如来 と 阿弥陀如来の坐像。二つの大きな如来像の間にすっくりと細身の十 一面観音 が立っている感じである。体躯ががっちりした如来坐像の頭はいず れも 十一面観音の腰あたりで、そのために観音様はひどく長身に見える 。 架山は初め黒檀か何かで作られた観音様ではないかと思った。 肌は黒々とした光沢を持っているように見えた。そして、また、 仏像と言うより古代エジプトの女帝でも取り扱った近代彫刻ででも あるように 見えた。もちろんこうしたことは、最初眼を当てた時の印象である 。 仏像といった抹香臭い感じはみじんもなく,新しい感覚で処理され た近代 彫刻がそこに置かれてあるような奇妙な思いに打たれたのである。 架山はこれまでに奈良の寺で、幾つかの観音様なるものの像に お目にかかっているが、それらから受けるものと、いま眼の前に 立っている長身の十一面観音から受けるものとは、どこか違ってい る と思った。一体どこが違っているのか、すぐには判らなかったが、 やがて、 「宝冠ですな、これは、みごとな宝冠ですな」 思わず、そんな言葉が、加山の口から飛び出した。 丈高い十一個の仏面を頭に戴いているところは、まさに宝冠でも戴 いている 様に見える。いずれの仏面も高々と植えつけられてあり、大きな冠 を 形成している。、、、、、 十一の仏面で飾られた王冠と言う以外、言いようが無いではないか と思った。 しかも、飛び切り上等な、超一級の王冠である。ヨーロッパの各地 の博物館で 金の透かし彫りの王冠や、あらゆる宝石で眩く飾られた宝冠を見て いるが、 それらは到底いま眼の前に現れている十一観音の冠には及ばないと 思う。 衆生のあらゆる苦痛を救う超自然の力を持つ十一の仏の面で飾られ ているのである。 、、、、 大きな王冠を支えるにはよほど顔も、首も、胴も、足もしっかりし ていなければ ならないが、胴のくびれなどひとにぎりしかないと思われる細身で ありながら、 ぴくりともしていないのは見事である。しかも、腰をかすかに捻り 、左足は 軽く前に踏み出そうとでもしているかのようで、余裕綽々たるもの がある。 大王冠を戴いてすっくりと立った長身の風姿もいいし、顔の表情も またいい。 観音像であるから気品のあるのは当然であるが、どこかに颯爽たる ものがあって、 凛としてあたり払っている感じである。金箔はすっかり剥げ落ちて 、ところどころ その名残を見せているだけで、ほとんど地の漆が黒色を呈している 。 「お丈のほどは六尺五寸」 「一本彫りの観音様でございます。火をくぐったり、土の中に埋め られたりして 容易ならぬ過去をお持ちでございますが、到底そのようにはお見受 けできません。 ただお美しく、立派で、おごそかでございます」 たしかに秀麗であり、卓抜であり、森厳であった。腰をわずかに捻 っているところ、 胸部の肉つきのゆたかなところなどは官能的でさえあるあるが、仏 様のことであるから 性ではないのであろう。左手は宝瓶を持ち、右手は自然に下に垂れ て、掌を こちらに開いている。指と指とが少しづつ間隔を見せているのも美 しい。 その垂れている右手はひどく長いが、少しも不自然には見えない。 両腕夫々に 天衣が軽やかにかかっている。」 日本人の神の在り方を説明するのによく引用されて有名なものに西 行法師が 伊勢神宮(天皇家の祖先神が祭られている日本の代表的神社)に行 った時の歌 があるのですが、その内容は 「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる 」 つまり「誰がいらっしゃるのか知らないけれど、なんとなく神々し くて涙がでるなあ」 などというものでした。西行法師ほどの知識人(鎌倉時代を代表す る歌人の一人。 もともとは武士であり鳥羽上皇に仕えていたが、後に出家し諸国を 遍歴した。 1190年没)がこの伊勢神宮の神様(内宮が天照大神、外宮は豊 受大神)を知らない とは絶対にあり得ないといえますが、ようするに西行法師がいいた かったことは、 日本人にとって「神」ということで大事なのは「名前」ではなく「 神々しさ」なのだ、 ということなのでしょう。天照大神といえば天皇家の祖先神なので すから誰でも 知っていて不思議はないのに、こう言われてしまうほどなのです。 ですから一般庶民が ここに祭られている神を知らなくてもあまりとがめられません。 これはすでに西行法師に先立つ「菅原孝標の娘」による『更級日記 』(1020年か ら1058年までの日記)の中にもあり、そこでは、 「常に天照御神を念じ申せ、という人あり、いずこにおわします、 神・仏にかはなど… …」 (いつも天照大神を拝みなさいという人がいるけれど、だけど、ど こにいるんだろう… … 「神」なんだか「仏」なんだか?………)などと言われています。 もちろんここは「以前は浅はかであった自分はこんな始末であった が、段々分別が ついてやがてどこそこの神と知れるようになったのだが……」 という文脈ですから「全然知られない」というわけではないのです けれど、 それにしても 「分別がついて信心深くならなくては知るにいたることはない」と いうのは 「神」の存在の在り方としてははなはだ頼りないといわなければな らないでしょう。 こんなのが古代の日本人の神意識であり、これは今日の私たちと全 然変わらないと すら言えるでしょう。では日本人の心にある「神」とはいかなるも のなのでしょうか。 仏像への考え方 信仰的には「地蔵菩薩」と「弥勒菩薩」が一番重要でしょう。地蔵 菩薩は仏教教理的 にはその名前が表しているように「大地があらゆるものを蔵し、そ れを育てると いう徳」を表していますが、一般的にはお釈迦様から弥勒仏の出現 までの56億 7千万年の間を受け持って、六道(輪廻の説によると、この世界は 六つの世界で 構成され、天、人間、阿修羅、動物、餓鬼、地獄の世界からなって いる、 とされそれを六道といいます) にある衆生を見守っている菩薩と信じられ、ここから「六道地蔵」 として六体 ならんでいる姿が一般に見られるようになっているわけです。 とりわけ「地獄」での救いが期待されました。 そしてもう一つが「弥勒信仰」ですが、これは今見ましたように、 「釈迦以来56億 7千万年後に出現する仏」とされ、釈迦以来の仏たちによる救済に 漏れたすべて の衆生を救済する仏とされました。仏になることは約束された「未 来仏」ですので しばしば「仏」として表象されることもあります。 こんな具合に、信仰の上では「現世での救済の祈り」という性格の つよい 「観音信仰」、死後での六道のさまよいの中での救済、とりわけ地 獄での救済願望 としての「地蔵信仰」、そして「未来での救済」が願望されたとこ ろでの「弥勒信仰」 といったものが一般庶民の信仰の在り方であったといえるでしょう 。 しかしこうなっても「それぞれの仏そのものの仏格の意識」という ものはほとんど 生じていない、というのが正直なところでしょう。 というのも、もう一つ良く知られた信仰に「不動信仰」があり、現 在でも「お不動様」 と呼ばれて親しまれている信仰があるのですが、この「不動」は「 明王部」 ですからさらに下のクラスになる筈なのです。 しかしそんなことは全然知られておりません。 またこの不動様の前身がかつての民間信仰の神「シバ神」であるこ とも意識されて いないのが普通です。異教の神ですから位が低く始めは「如来の使 者」 でしかなかったのですが、後には「大日如来の分身ないし変身の姿 」の如くに 信じられ、「貴族の守護神」とされ、さらにまた「修行者の守護神 」としても 一般化し、さらには庶民にまで広まったと考えられているものです 。 しかし一般庶民にとってはそんなことはどうでもよく、ようするに 「悪」を退治 して自分達を守ってくれる「有り難い仏様」ということでの信仰で しかない。 こんな具合に「仏ないし仏像信仰」は展開しているのですが、ここ にある信仰形態は 種類・姿・形は異なっていても「皆同じ」なのであり、ただ「仏」 というものに対する 信仰という形になっていると言えます。 少なくとも、ギリシャにおけるがごとく「女神アルテミスは敬愛す るけれど、女神 アフロディテは尊敬しないし礼拝もしない」(エウリピデス『ヒッ ポリュトス』) などというような類別意識はないのでした。 こうした意味では、つまり「神・仏」にも類別を見ず、「神・仏」 としてのみ意識する ということで、「神も仏も一つ」というような扱いになっていると 言えます。 これが日本人の「宗教感覚」なのであり、それはこのページの各章 でみてきたように 日本人にとっては「神々」も「仏たち」も、要するに「繁栄をもた らし」「成功を もたらし」「災厄を除去し」「平安をもたらす」そうした力、よう するに自然の中に 生きている人間に対しての「根源としての自然的力」の形象化で あったということで、これが日本の神々や仏たちの「正体」だった というわけです。 ーーーーーーーーーーー従来、仏像の観賞方法には、大体2つの方法があった。1つは、いわば仏像を対象とした叙事詩を綴る方法である。われわれの人生において、われわれはしばしば人と出会うのである。 われわれが人生の途上でふと出会った人が、われわれの一生を支配し、決定することがある。 一生に何回かわれわれは、自己の運命を支配する人に出会うわけであるが、 時とするとわれわれは仏とも運命的な出会いをすることがある。大正6年、和辻哲郎氏は奈良の古寺の仏像の美に感動して、「古寺巡礼」を書き、 ヨーロッパ的教養で仏像を見る新しい仏像観賞の道を教えた。彼のその後の日本文化への関心がその仏像との出会いによって決定されたであろうことは疑いがない。 そしてまた昭和12年、亀井勝一郎氏は転向の罪に傷ついた心を抱いて、 ふと訪れた中宮寺の弥勒菩薩の微笑みに一切の罪を許す慈悲をみて「大和古寺風物詩」 を書いた。そして戦後の民主主義のかもしだす俗悪な空気に耐えかねて、法隆寺を 訪れた竹山道雄氏は、そこに精神の貴族のみが味わうことが出来る、ロマン的文化の崇高さ を感じて「古都遍歴」を書いた。このような己の精神の転機にあって、運命的な 出会いをした仏に対する感激を記すことは確かに人の魂を揺り動かすに違いない。 そして、われわれは、結局仏に対して自己の心でふれるよりほかないのである。 我々の個性が無数に複雑であり、われわれの人生が無限に異なるように、仏に対する われわれの感動も、日にあらたなのである。だが、とかく主観的な感動は客観的な仏の持つ意味と食い違いことがある。 特に古都の仏像に伴う深遠で神秘的なムードは、仏像とその仏像の持つ教えの差異に 対してほとんど注意を促すことなく、一様に、ただ甘美な陶酔に人を誘い込みがちである。 たとえば、飛鳥仏の口元にただよう微笑みは、仏像そのものの象徴であるかのように、 ある神秘的気分に人を誘い、多くのむしろ冷厳な哲学者や文学者の口から、美しいが、 意味のとりがたい嘆声のような賛美の言葉をもらさせるのである。そのほほえみは、「摂取の上で、むしろ摂取の刹那に、間髪を入れず頬に浮かび上がる 幽遠な微笑」とか言われ、はては中宮寺の庭や法隆寺の門まで微笑みに満ちた庭や門と されるのである。高い調べの美しく悲壮なる仏像に関する叙事詩を綴る代わりに 仏像の語る思想と真摯な哲学的対話をすることが必要ではないか。13単なる形だけの美術史では仏像は今のわれわれにはほとんど何も語り掛けないのである。 実際形の中に心が隠されているのである。仏教は何よりも仏教の像なのである。それゆえ、 形は形だけで表されることはないのである。何気ない形の変化の中に、仏教思想の 変化が隠されているのである。しかも、仏教、一般に宗教は何よりも人間の心の問題 なのである。それゆえ、形の変化の中に思想の変化が、思想の変化の中に心の変化が 隠されているのである。、、、阿弥陀仏は、奈良時代では、主として説法している姿で表わされ、平安時代では座って沈思黙考 をしている姿で表わされ、そしてさらに鎌倉時代以後は、立って念仏者を迎えている姿で表わされる。 このことはたしかに形の変化であるが、しかしそれは形の変化ばかりではなく、仏教思想 浄土思想の変化であるばかりか、そのように阿弥陀仏を変化させなければならなかった、 人間の心そのものの変化なのである。14客観化された精神が形をとってあらわれたものが、文化だとヘーゲルは言う。つまり ヘーゲル流にいえば、法隆寺の仏像は飛鳥時代の精神が、客観化したものというわけである。 またデルタイは文化を生命の表現とみる。文化とは人間の生命が表現されたものである。 われわれが探求しようとするのは、1つの寺が醸し出す詩的なムードや1時代を支配する時代精神ではなく、むしろ日本で作られた 仏像の背後にある精神なのである。その仏像の背後にいかなる思想があり、いかに日本人に崇拝され、いかなる意味を、 いまのわれわれに暗示するのか、それは場所でもあり、時代もあり、種類もある。 ーーーーーーーーーー和辻哲郎の「古寺巡礼」は、奈良周辺のお寺にある仏像の美しさに心を魅かれた彼の想いとそれをベースとした古寺全体についての時代的な流れについて書かれている。ここでは、「仏像の形」から、そのような仏像が何故出来たのか?を日本文化の問題点、日本人の心の問題として考え、現代への意味付けを 含め、「仏像 心と形」と言う本を中心に、考えてみる。例えば、法隆寺の仏像は、飛鳥時代の精神、考えが客観化したものであり、この 表現されたものを通じて、その背後にある飛鳥時代の人間の生き方、 考え方、想いを理解したい。1)釈迦如来像釈迦如来像が作られ始めたのは、550年ごろ、仏教の伝来とともに、 始まった。そのため、釈迦牟尼仏を理解する必要があり、京都市上品蓮台寺などに 保管されている絵因果経は、わが国に残る仏伝を取り扱った最古の作品である。 生まれたばかりの釈迦は、32相80種好の異なる特色を具備していたという。 これは、釈迦仏、薬師仏、阿弥陀仏でも、同じく、32相80種好を具備するもの と規定している。32相には、肉桂相や白豪相などがある。仏陀の見分け方は、手の位置、指の曲げ方、などで、何仏かを決定している。 これを印相、印契と読んでいる。涅槃像は、仏が入滅する時の姿勢で、最古の作品としては、貴重である。 そして、涅槃図の中には、1つの感情の動きがある。じっとその悲しみを 押し殺している弟子と慟哭し、嗚咽している一般民衆には、大きな差がある。 原始仏教(人生の苦の原因である愛欲を断ち切ること)から大乗仏教への進化 を考える必要がある。大乗仏教では、もっぱら釈迦の存在を超歴史化、超人化して、人間とは違う 如来や薬師、大日、阿弥陀などの多くの仏を創りだした。これらのことにより、 仏教は、初めて宗教と言える形となっていった。この倫理的な仏教から宗教となった 仏教への変化の中に、像の成立が大きな役割を担っているのは否定できない。 今日、われわれが仏教というものを考えるとき、仏像を持った仏教を考えるわけであるが、 その仏経は釈迦仏教から大分変化したわけである。超人的な仏に礼拝するという大乗仏教の思想があった。2)薬師如来像どんな宗教でも、それが一般民衆に受け入れられるには、何らかの現世利益 的信仰の形が必要となる。人間の悟りの境地を最終目的とする仏教においても、 一般民衆をその振興に導くための方便として、様々な現世利益を与える仏が出現して、その信仰を集めてきた。薬師如来は、それの代表として、広く信仰を集めてきた。日本でも、観世音菩薩がまず、信仰され、その後、教理的な位置付けとしては、 あまりされていないが、曼荼羅図にも描かれる薬師如来が広く一般民衆の 振興の対象となっていく。最初は、7世紀ごろ、法隆寺の金堂像として、造立される。旧いものでは、奈良法輪寺、京都神護寺にある。戦前の日本では、功利主義や実用主義はほとんど思想として認められていなかった。 しかし、功利主義などを公の価値から排除することが薬師如来の評価 する場合には重要となる。すなわち、この薬師如来崇拝からは、日本人の「合理的実利精神が明確となる。その具体的な事実として、「比叡山延暦寺の本尊が、「薬師如来」であるという ことを考える必要がある。そこには、日本文化の雑種的混合的な性格とその雑種性 混合性を統一するものが、現世利益の精神と思われる。その人気の点では、現世に対する絶望と死に対する不安から、阿弥陀如来と なって行くが、やはり現世利益の薬師如来が一般民衆では、本尊とかんがえられ、 現世での薬師如来、来世での阿弥陀如来の二元崇拝となって行く。しかし、法然、親鸞により、薬師による現世利益崇拝が主となる。親鸞に、現世利益和讃と言うのがある。南無阿弥陀をとなればこの世の利益きはもなし流転輪廻のつみきえて定業中夭のぞこりぬ南無阿弥陀仏をとなえれば十万無量の諸仏は百重千重囲適してよろこびまもりたまうなり要は、南無妙法蓮華経と唱えれば、この世においても幸福を得ることが出来る。 3)阿弥陀如来像一如来は一浄土を開いているが、阿弥陀如来の極楽浄土が広く知られているため その有様は、「観無量寿経」に詳しく書かれている。法隆寺の阿弥陀如来像(橘夫人念持仏)は白鳳時代の傑作である。平安時代には、末世思想が広く信じられ、末法時代になるとの恐れもあり、 阿弥陀仏の信仰が「念仏するだけでこの末法時代から逃れられる」ことで、 阿弥陀如来像の造率やその仏画が多く作られた。阿弥陀如来像の印相は、最も種類が多い。一般に阿弥陀如来の印相は、両手ともに第1指と第2指とを捻して、 輪のようにしているものである。上品上生から下品下生の9種類がある。 多くの阿弥陀如来像は、丈6象が基本であり、京都法界寺、京都浄瑠璃寺 の本尊、京都宝菩提院本尊などが有名である。また、陀如来堂には、2つの考えがあり、念仏を修行する場と極楽浄土 のような華麗絢爛な装飾で極楽浄土を現したものである。来迎図にも、一尊、三尊、二十五菩薩来迎、聖衆来迎など様々な来迎図 がある。京都知恩院の阿弥陀如来二十五菩薩来迎図、高野山の聖衆来迎図、滋賀の 西教寺の迅雲来迎図、京都泉湧寺の二十五菩薩来迎像などが有名である。 阿弥陀仏信仰は、藤原時代から急速に大衆化し、多くの信者が増えた。このため、浄土の有り様を描いた画が多く書かれ、浄土曼荼羅 、浄土変相図として、その拡大の一端を担った。特に、当麻曼荼羅、智光曼荼羅、清海曼荼羅の浄土三曼荼羅は有名である。 ■現代における阿弥陀の浄土と彼岸の世界阿弥陀如来の「我々の死後、救済してくれるという」考えが現代人に 通用するか、はかなり疑問が残る。慈悲として釈迦如来、現世利益の 薬師如来、宇宙総括の大日如来は、感覚的にも納得の行く所であるが、 彼岸そのものがありえるのであろうか。しかし、平安時代以降、阿弥陀如来の以外の仏教美術は、その多くが 消えたり、影響を受けたりして、日本文化の核となって行く。そして、阿弥陀の極楽浄土を深く知るには、日本文化や」日本人の心を 知るには、「観無量寿経」への理解が必要となる。観無量寿経は、父と母を殺そうとする太子が幽閉の身にする。そこで、 母は、釈迦に極楽浄土へ行く方法をおしえてもらう。「定善と散善である」 これにより、幾つかの散善の方法により、極楽浄土に9品のレベルで、 いけるようになる。しかし、その教えである浄土教は、思想的な変化をして行く。往生要集の 源信から法然、親鸞となり、民衆へと更に広がる。阿弥陀を本尊とする浄土教が「現世への絶望や死への不安、美や善への 憧憬」を単に彼岸への約束だけで、実現できるものではない。ここに、阿弥陀如来を基本とする教えの限界があるかもしれない。4)大日如来大乗仏教が本格的に広まり、お釈迦様が仏としての釈迦如来の意味づけが 強くなると、上救菩薩下化衆生の具現化のために、様々な仏が出現する。 阿弥陀如来、薬師如来などであり、夫々が具体的な性格を持って出現した。 そして、釈迦如来を1つのものに統一する思想が濾巡那仏を仏教の本源の 仏と考えるようになった。その仏があらゆる世界に釈迦として出現する と考えた。この教義を具体的に展開したのが、真言密教である。このため、大日経、金剛頂経の両経典ともに、基本は同じであるが、 大日如来の姿は印相を含め、かなり違う。また、大日如来像は、王者の風格を現そうとしているためか、他の如来と違い、多くの装飾をつけている。曼荼羅が重要な位置を占め、胎蔵界と金剛界の両界曼荼羅を1対のものとして扱うのが通例でもある。神護寺の紫綾地金銀泥両界曼荼羅図が有名である。仏像では,案祥寺五智如来像、高野山竜光院の本尊、法勝寺の四面大日如来、渡岸寺の胎蔵界大日如来像、唐招提寺の濾巡那仏坐像などがあるが、諸仏、諸菩薩を統一する中心本尊としての仏であり、大衆信仰の対象としては、あまり出てきていない。■大日如来の日本社会での位置付け大衆信仰として、大日如来の存在はそれほど高いとは思えない。そのりゆうとしては、・真言密教の本尊であり、浄土宗、浄土真宗、禅宗日蓮宗の多さに比べて、天台宗とともに、その数が少ない。・大日如来が智の仏であり、「情」を基本とする日本人の心性、日本文化の性格に合わないことがある。しかし、大日如来が根源となり、ほかの如来や菩薩の崇拝を育てたのではないだろうか。更に、これらの背景に華厳思想があることを忘れてはならない。曼荼羅の基本は、大日経に基づく胎蔵界曼荼羅と金剛頂経に基づく金剛界曼荼羅を2対1組とする両界曼荼羅であるが、結局は絶対の仏 である大日如来に統一されていく。例えば、現在の胎蔵界曼荼羅である中台八葉院略図では,13の院に分かれており、この院を囲んで、持明院、遍智院、蓮華院、金剛手院 が囲み、第2、第三重に多くの仏が配置されている。そこには普賢菩薩、文殊菩薩など8つの菩薩との関係を上手く描いている。 両界曼荼羅は、一目で、仏教の深遠な思想が理解されるようになっている。 例えば、第3層の釈迦院はたにんん救済に向かうし、文殊院は、自己深化、 自己向上へ向かう。■日本人の生命観と密教との関係日本人は、古来から自然の中に、生ける神の姿を観る民族である。このため、自然崇拝に適した仏教が日本では受け入れやすかった。また、在来からの神道とも同じである。智を基本とする大日如来は、観音、弥勒などの「情」を基本とするような仏に対しては、やや馴染みにくい。5)観音菩薩像菩薩は、大乗仏教の中で、発展し、密教の広がりとともに、特にその数が増えた。これは、「上救菩薩、下化衆生」の仏教の境地を示す。特に、観世音菩薩への大衆信仰の大きさは凄い。観世音菩薩の国内での広がりは、観音霊場三十三箇所を巡拝する風習も始まった。その始まりは、500年ごろの陀羅尼雑集12巻と思われる。更に観音像は、十一面観音、如意輪観音などに拡大していく。観音信仰は、日本書紀の記述では、天武天皇時代にもあり、その始まりはかなり古い。十一面観音の規定は、正面の三面が菩薩面、左三面が槇面(憤怒)右三面は菩薩面に似て狗牙が上に出ている顔につくり、後ろの一面は 大笑面、頂上に仏面を創ることになっている。次に出現した不空賢索観音がある。この観音は、多くの寺に安置されたとあるが、現在は、広隆寺、興福寺、東寺などに僅かに残るのみ。 次の千手観音では、正式には、大阪葛井寺の観音のように、四十八手 を大きく作り、残りの9百本以上を光背のように、背後に広げたように 配列する。これを好く現しているのが、京都三十三間堂である。更には、馬頭観音、准禎観音、如意輪観音、聖観音などがある。なお、観音信仰の著しい典型的な例としては、西国三十三箇所の観音である。千手観音が16体、11面と如意輪観音が6体、聖観音が2体などとなっている。観音が大乗仏教の慈悲の精神そのものを表現していることもあり、その信仰対象になったのであろうが、美的な面では、ややグロテスクな 千手観音にその信仰が集まるのは、何故か?人間は、複雑であり、怪奇的な面をも持つという多面性を現すことが 重要と考えられたのであろう。更に、人間の苦行の叫びを聞くだけではなく、直ちに救済を行うための実践隣、それが千本の手となる。観音経では、大火、大水、羅刹鬼、刀杖、悪人、拇械枷鎖、怨賊などの七難から衆生を救い、三毒、淫欲、槇志、愚痴などの内面的な毒から衆生を救う現世利益の力がある。更に、観音は、三十三身に変化して、民衆を救う。このような観音を信じることにより、安心、希望、畏怖、感謝の心を持つことになる。観音信仰は、「あらゆる生けるものの中に観音の現われを見る」思想であるが、これは、全てのものは、可能性として、この宇宙の大生命を宿していることにもなるが、工業社会の進化は、「世界は我々の支配」と言う間違った考えが支配している。6)地蔵菩薩地蔵菩薩は、村の入り口、畑の横など常に我々の生活に溶け込んでいる仏であり、ほかの菩薩とは違い、頭上に宝冠を頂くことなく、袈裟と衣を着用した普通の僧侶の姿が基本である。経典には、実を作り出す「地」は偉大であり、同じくこの菩薩は全ての衆生を救済する力を持っている、と言っている。更に、平安時代以降、死んだ人も救済すると信仰されたこともあり、 多く造られた。これを具体的な形にするため、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道を救うため、六地蔵菩薩として、安置している。地蔵菩薩は、ほかの観音菩薩などと同じく、現世利益を説いているが、更に、過去に死去した人の罪を救済し、解脱へと導く菩薩としても信仰されている。地蔵菩薩は、民衆の生活に深く根付いた仏でもあり、その証として、多くの和歌、狂歌、歌謡曲などに無数に登場する。曼荼羅は、仏の存在を論理的にまとめた図であり、これを その性格上から見れば、ビジネスとしての全体把握にも、応用 出来る筈である。そのためにも、曼荼羅図の理解をまずは、してもらいたい。 ここでは、その概要を「仏像」「続 仏像」の本をベースに 書いている。 仏像の形は多種多様である。 一つ1つの仏の背後には、生々しい人間の心が隠されている。 曼荼羅は、仏のまとめ方としては、最も、有効である。 仏の最上位にいるのが、4つの如来である。 まず、一番上は、仏教の創始者である「釈迦如来」。 次には、その対極に、「大日如来」となる。 「釈迦如来」は、人間的な立場としての仏であるが、 「大日如来」は、形而上学的(理論的な)な立場としての仏である 。 この縦の軸に対して、現世利益を与える「薬師如来」が彼岸救済を 基本とする「阿弥陀如来」と対極的な立場にある。 しかし、日本では、大乗仏教の発展、空海の密教の拡大により、「 釈迦如来」 よりも、「大日如来」を中心とする仏教思想が本流のようになる。 あらゆる宗教は、現世利益を追求したものであるが、地獄、極楽図 が 衆生の中で、その存在を高めているのは、彼岸救済、すなわち、死 んだ後の 自身の安寧が強いからでもある。 このため、法然や源信により、「阿弥陀如来」が仏教の原点と説か れる。 しかし、特に、最近は、日蓮が説いた現世利益追求の「薬師如来」 が 仏教の原点としてみなされている。 曼荼羅は、このように、最上位の仏の位置付けをその根本思想によ り、 明確にすることが可能となる。 更に、この曼荼羅に、菩薩を加えることで、夫々の役割と思想が明 確になる。 例えば、 ・大日如来には、「観音菩薩」「不動菩薩」が密教が作り出した菩 薩として 配置される。 ・釈迦如来には、「文殊菩薩、弥勒菩薩、普賢菩薩」がある。 ・薬師如来には、「毘沙門天、大黒天、弁天」が配置される。 ・阿弥陀如来には、「地獄、極楽、地蔵」が配置される。 日本文化を理解するための曼荼羅での展開 曼荼羅の基本軸を色々と想定することで、日本文化の仏教からの視 点 出の対比検討が可能である。 例えば、大日如来の「観音菩薩と不動」を軸とした場合は、「男性 的なもの」 「女性的なもの」と言う視点で、新たなる考え方が可能かもしれな い。 また、これに、時間軸として「現在、未来、実際的、観念的」の4 軸を 考えると、現状の仏教の姿も見えてくる。 ・仏教の世界観としての「十界」 ①迷界(6道という) 地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界 ②悟界 声聞界、緑覚界、菩薩界、仏界 最も、熾烈な表現の地獄絵巻 京都北野天満宮の「北野天神絵巻」がある。 「マンダラ」という語は、英語ではヒンドゥー教やその他の宗教の コスモロジー(宇宙観)も含め、かなり広義に解釈されているが、 日本語では通常、仏教の世界観を表現した絵画等のことを指す。 「曼荼羅」はもっとも狭義には密教曼荼羅を指すが、日本において は、 阿弥陀如来のいる西方極楽浄土の様子を表した「浄土曼荼羅」、 神道系の「垂迹(すいじゃく)曼荼羅」など、密教以外にも「曼荼 羅」 と称される作品がきわめて多く、内容や表現形式も多岐にわたり、 何をもって「曼荼羅」と見なすか、一言で定義することは困難であ る。 密教の曼荼羅は幾何学的な構成をもち、すべての像は正面向きに 表され、三次元的な風景や遠近感を表したものではない。しかし、 全ての曼荼羅がそのような抽象的な空間を表しているのではなく、 浄土曼荼羅には三次元的な空間が表現されているし、神道系の 曼荼羅には、現実の神社境内の風景を表現したものも多い。 また、日蓮宗系の各宗派でも、「南無妙法蓮華経」の題目を主題と して 中央部に書き、その周辺全体に諸仏・諸菩薩などの名前を書いた曼 荼羅 を本尊として用いることが多い。 (日蓮正宗では、主題に「南無妙法蓮華経 日蓮」と書かれた十界 互具の曼荼羅本尊のみを曼荼羅として用いる)。 全ての曼荼羅に共通する点としては、(1)複数の要素(尊像など )から 成り立っていること、(2)複数の要素が単に並列されているので はなく、 ある法則や意味にしたがって配置されている、ということがあげら れる。 密教系の絵画でも、仏像1体だけを表したものは「曼荼羅」とは呼 ばない。 「曼荼羅」とは、複数の要素がある秩序のもとに組み合わされ、全 体として 何らかの宗教的世界観を表したものと要約できるであろう。 その形態 曼荼羅はその形態、用途などによってさまざまな分類がある。 密教では曼荼羅をその形態(外観)から次の4種に分けている。 大曼荼羅 - 大日如来をはじめとする諸仏の像を絵画として 表現したもの。一般的に「曼荼羅」と言ったときにイメージ するものである。 ・三昧耶曼荼羅(さまやまんだら、さんまや) 諸仏の姿を直接描く代わりに、各尊を表す象徴物(シンボル) で表したもの。諸仏の代わりに、金剛杵(煩悩を打ち砕く武器)、 蓮華、剣、 鈴などの器物が描かれている。これらの器物を「三昧耶形」(さま やぎょう) と言い、各尊の悟りや働きを示すシンボルである。 ・法曼荼羅 - 諸仏の姿を直接描く代わりに、1つの仏を1つの文字(サンスクリ ット 文字、梵字)で象徴的に表したもの。仏を表す文字を仏教では種子 (しゅじ、あるいは 「種字」とも)と言うことから、「種子曼荼羅」とも言う。 羯磨曼荼羅(かつままんだら) - 「羯磨」とはサンスクリット語で「働き、作用」と いう意味である。羯磨曼荼羅とは、曼荼羅を平面的な絵画やシンボ ルではなく、立体的 な像(彫刻)として表したものである。京都・東寺講堂に安置され る、大日如来を中心 としたの21体の群像は、空海の構想によるもので、羯磨曼荼羅の 一種と 見なされている。 種類(内容) 次に、曼荼羅の内容から区分すると、密教系では、根本となる両界 曼荼羅の他に 別尊曼荼羅があり、密教以外では浄土曼荼羅、垂迹曼荼羅、宮曼荼 羅などがある。 両界曼荼羅 - 「両部曼荼羅」とも言い、「金剛界曼荼羅」「大悲胎蔵曼荼羅」と いう 2種類の曼荼羅から成る。「金剛界曼荼羅」は「金剛頂経」、「大 悲胎蔵曼荼羅」 は「大日経」という、密教の根本経典に基づいて造形されたもので 、2つの 曼荼羅とも、日本密教の根本尊である大日如来を中心に、多くの尊 像を一定の 秩序のもとに配置している。密教の世界観を象徴的に表したもので ある。 ・別尊曼荼羅 - 両界曼荼羅とは異なり、大日如来以外の尊像が中心になった 曼荼羅で、国家鎮護、病気平癒など、特定の目的のための修法の本 尊として 用いられるものである。修法の目的は通常、増益(ぞうやく)、息 災、敬愛 (けいあい、きょうあい)、調伏の4種に分けられる。 増益は長寿、健康など、良いことが続くことを祈るもの、息災は、 病気、 天災などの災いを除きしずめるように祈るもの、敬愛は、夫婦和合 などを祈る もの、調伏は怨敵撃退などを祈るものである。仏眼曼荼羅、一字金 輪曼荼羅、 尊勝曼荼羅、法華曼荼羅、宝楼閣曼荼羅、仁王経曼荼羅などがある 。 ・浄土曼荼羅 - 浄土(清らかな国土)とは、それぞれの仏が住している聖域、 理想的な国土のことで、弥勒仏の浄土、薬師如来の浄土などがある が、単に 「浄土」と言った場合は、阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すことが 多い。 浄土曼荼羅とは、「観無量寿経」などの経典に説く阿弥陀浄土のイ メージを 具体的に表現したものである。この種の作品を中国では「浄土変相 図」と称する のに対し、日本では曼荼羅と称している。日本の浄土曼荼羅には図 柄、内容 などから大きく分けて智光曼荼羅、当麻曼荼羅、清海曼荼羅の 3種があり、これらを浄土三曼荼羅と称している。 ・垂迹曼荼羅 - 日本の神道の神々は、仏教の諸仏が「仮に姿を変えて現れたもの」 だとする思想を本地垂迹説という。この場合、神の本体である仏の ことを「本地仏」 と言い、本地仏が神の姿で現れたものを「垂迹神」と言う。特定の 神社の祭神を 本地仏または垂迹神として曼荼羅風に表現したものを垂迹曼荼羅と 言う。 これにも多くの種類があり、本地仏のみを表現したもの、垂迹神の みを表現した もの、両者がともに登場するものなどがある。代表的なものに熊野 曼荼羅、 春日曼荼羅、日吉山王曼荼羅などがある。それぞれ、和歌山県の熊 野三山、奈良の 春日大社、比叡山の鎮守の日吉大社の祭神を並べて描いたものであ る。 ・宮曼荼羅 - 本地仏や垂迹神を描かず、神社境内の風景を俯瞰的に描いた作品 にも「曼荼羅」と呼ばれているものがある。これは神社の境内を聖 域、浄土として 表したものと考えられる。この他、仏教系、神道系を問わず、「曼 荼羅」と 称される絵画作品には多くの種類がある。 ・文字曼荼羅(法華曼荼羅)- 日蓮の発案したもので、絵画ではなく題目や 諸尊を文字(漢字)で書き表している。また中央の題字から長く延 びた線が引かれる 特徴から髭曼荼羅とも呼ばれる。日蓮宗、日蓮正宗、及び、法華宗 、霊友会・ 立正佼成会・創価学会系法華経団体系の本尊としている。 ・チベット曼荼羅 - チベット仏教の曼荼羅。諸仏、六道輪廻、他など多く の種類があり、色砂で創られる砂曼荼羅も有名である。 《はじめに~仏像の魅力》 近世までいつ果てるともなく続いてきた、戦乱、疫病、飢饉。人々は心の拠り所を必要 としたが、仏教が伝来しても、肝心の経典に書かれた文字を読める のは貴族や高僧など 一部の特権階級だけで、文盲の大半の民衆には縁遠いものだった。 お経が読めない人間 でも、ひと目見ただけで御仏の慈悲や有難さが五臓六腑に伝わって くるもの…それが仏 像だった! しかし、仏像の魅力は御仏(みほとけ)の慈愛を体感出来ることだ けではない。僕の場 合、仏教の思想性や彫刻としての芸術的価値よりも、むしろ仏像を 彫り上げた仏師たち の“優しさ”に触れられる感動の方が大きい。 仏師たちは「何とかすさんだ人の心に平穏を!」そう思って、ひと 彫り、ひと彫り、祈 りを込めてノミを刻み、土をこねた。彼らにとって、自分が納得出 来ぬ仏像を世に送る ことは仏への冒涜になったので、満足のいく仏像を完成させるべく 、自己の存在理由を かけ、全身全霊を込めてノミや木づちを手にとった。 傷つき疲れた魂の救済に、真摯、かつ、懸命に挑んだ名も無き優し い仏師たち。そして 、仏師が彫った仏に救われ、火事や洪水から千年以上も仏像を守り 継いできた、数え切 れないほど多くの人々。国外の美術研究者は千年前の木製彫刻がこ れほど大量に火災を 逃れて現存していることに驚きを隠さない。 こんなにも熱い思いが込められた仏像を、「興味が無い」だけでパ スするてはない! それでは、かくも素晴らしき仏像の世界へ御案内しませう。 ------------------------------ ------------------------------ ------------------ 《仏像は4種類ある!》 仏像は大きく分けて以下の4種類。これはもう仏像鑑賞の基本中の 基本なので、何が何 でも抑えて欲しい!お釈迦さまに向かって「南無阿弥陀仏…」と手 を合わせるのは間違 いッス。 ・如来(にょらい) 悟りを得た者。ブッダともいう。服は布きれ1枚。手塚マンガの影 響でブッダ=釈迦と 考えている人が多い。確かに釈迦はブッダだが、あくまでも大勢い るブッダの中の一人 であり、釈迦だけがブッダではない。 ・菩薩(ぼさつ) ただいま修行中!出家前の王子時代の釈迦がモデルなので、胸飾り やブレスレットを身 に付けている。他者を救う“行”をしているので、すぐ助けに行け るよう基本的に立ち 姿で表され、瞑想には入らない。坐ったり瞑想していては素早く動 けないからだ。 ・明王(みょうおう) 修行する者を煩悩から守る仏。真言宗だけに登場する。 ・天部(てんぶ) 魔物から仏界&仏法を守るガードマン。元ヒンズー教の神々。 仏たちの上下関係はこんな感じ→ 如来(悟り済)>菩薩(修行中)>明王(民衆を守る)>天部(仏 界を守る) ------------------------------ ------------------------------ ------------------ 《如来&菩薩について》 如来は4種類に大別できる。菩薩の種類は数え切れない。一体の如 来像と2体の菩薩像 がトリオになって“三尊”と呼ばれる。 ★印・・・仏像の見分け方(例外はあるけど、こんな感じ) ●釈迦如来~悟りを開かせてくれる。本名ゴーダマ・シッダールダ 。B.C.500ご ろインド北部の釈迦国に生まれた王子。29才で王位の継承を放棄 して出家、35才で 悟る。80才で死ぬまで説法を続けた。 座っている像は人々を救う方法を考えておられる姿、立っている像 は人々を救おうと立 ち上がった姿だ。坐像と立像ではこうした内面の違いがある。 ★釈迦如来の印相(いんぞう、手の形)~右手の平をかざして説法 をしているか、両手 をヘソの前で重ねる座禅でおなじみのポーズ。前者を施無畏印(せ むいいん)、後者を 禅定印(ぜんじょういん)と呼ぶ。禅定印は釈迦が菩提樹の下で悟 りを得た時に結んで いた手の形だ。 ★釈迦如来の脇侍(わきじ=きょうじ、左右にいる仏)~文殊&普賢(ふげん)菩薩。 ・文殊菩薩…智恵の仏。釈迦の実在の弟子で高名な賢者だった。獅 子に乗っている。い ずれは如来となり仏界の南方を治める。剣を持つことがあるが、智 恵が“切れる”こと を表している。 ・普賢菩薩…慈悲の仏。行動的な菩薩で、至る所に現れる。女人往 生を説いたので女性 の信仰を集めてきた。普賢の意味は「普遍の教え」。彼もいずれ修 業を終え如来となり 、仏界の北方を治める。白象に乗っている。 ※釈迦は菩薩の代わりに、梵天&帝釈天に挟まれることもある。 ------------------------------ ------------------------------ ----------------- ●阿弥陀如来~極楽へ往生させてくれる。釈迦と同じインドの王子 だが、悟ったのは釈 迦以前。現在は極楽浄土の主。阿弥陀(極楽)には多くの仏がおり 、その阿弥陀仏軍団 のリーダーが阿弥陀如来。臨終の際に名を唱えれば、極楽から弟子 の菩薩たち(25人 )を従えてお迎えに来て下さる。仏界の西方を治める。 (南無阿弥陀仏の「南無」は“おまかせします”という意味) ★阿弥陀如来の印相~親指と人差し指でOKを作っている。
★阿弥陀如来の脇侍~勢至(せいし)&観音菩薩。 ・勢至菩薩…智恵の仏。水瓶(すいびょう)を持っていて、中には汚れを払う霊水が入 っている。 ・観音菩薩…慈悲の仏。観音のバリエーションは全部で33種あり 、その中で特に有名 な6種の観音を“六観音”と呼ぶ。六観音は、なんと、地獄に堕ち た者まで救ってくれ る。地獄は罪の重さによって六段階に分かれているので、この六観 音が個別に各地獄へ 救済に向かう。 ※観音は教えを説く時に、それぞれの人に適した姿に変身して現れ る。 その1.聖観音…全ての観音の基本形態。阿弥陀如来の弟子で頭に 師匠の化仏(けぶつ 、小さな阿弥陀仏)を載せている。地獄の最下層にまで助け出しに 来てくれるのがこの 聖観音。聖は“しょう”と読むので要注意。 その2.十一面観音…11個の顔で全ての方向を見つめ、苦しんで いる人を一人でも多 く発見し、救い出そうとしている。左手に蓮華を挿した水瓶を持つ (この水は一切のけ がれを消す)。十一面観音の最大の見所は後頭部。なんと、いつも クールな仏が爆笑し ており、これは「暴悪大笑面」(ぼうあくだいしょうめん)と呼ば れている。悪事を笑 っているのだ。邪悪なものを打ち倒す力は“笑い”が一番というこ とか。 ※暴悪大笑面といえば向源寺の十一面観音(国宝)!とにかくド迫 力、素晴らしい! (向源寺・暴悪大笑面)←クリックしてちょ! その3.千手観音…聖観音が変化した法力最強バージョン。無限の 慈悲で人間以外の生 き物も全て救う。この仏も顔は十一面あり、手は千本あるものと4 2本に省略されたも のがある。有名な風神&雷神はこの千手観音に従っている。 その4.馬頭観音…怒りの観音。諸悪を粉砕する。頭上に馬の頭が 載っているので簡単 に見分けがつく。馬はどんな濁った水でも飲み尽くすことから、人 々の不浄な煩悩を断 つ仏として信仰される。 その5.如意輪(にょいりん)観音…6本ある手には、あらゆる願 いをかなえる如意宝 珠や、仏の教え(あるいは釈迦自身)を象徴する法輪を持っている 。法輪は武器にもな る。菩薩には珍しく坐像が多い。 ※手が6本になったのは平安時代以降。 その6.不空羂索(ふくうけんじゃく)観音…羂索というロープを 持っていて、それで 人々をもれなく救い上げる。不空とは“願いが空しくない”という 意味。目が額にもあ る。 ※真言宗では不空羂索観音の代わりに子宝に恵まれる力を持つとい う准胝(じゅんてい )観音を加える。 【水月観音】 自分が思うに観音の中で最も美しいお方は、腰をかけて水面に映っ た月の光を眺めてい る水月観音だ!足を崩し手をついてリラックスしており、これほど くつろいだ仏は他に ない。何かもう、見ているだけで身体から余分な力が抜けていく。 “水月ジャンキー” になる人も多いと聞く。 ※水月観音といえば北鎌倉・東慶寺のもの!クリックしてとくと御 覧あれ! (東慶寺・水月観音) ------------------------------ ------------------------------ --------------- ●薬師如来~左手に薬壺(やっこ)を持っており、身体と心の病気 を癒してくれる。阿 弥陀の次に悟りを得た如来。薬は生きている者だけに役立つことか ら、阿弥陀如来があ の世の象徴であるのに対して、薬師如来は“生 ”の象徴とされている。 仏界の東方浄土を7人の薬師仏で治めているので、代表の薬師如来 は背後に背負ってい る光背(こうはい)に6体の化仏をつけている。見ているだけで病 気がスッと治るよう な有難さを持った、そんな薬師如来がグーッド! ★薬師如来の印相~これは簡単!上記したように薬壺が目印(ただ し、薬壺を持つよう になるのは平安時代以降)。薬師如来も釈迦のように右手をかざし ているが、これは説 法をしているのではなく、患部を手当てしている。また、右手の“ 薬指”を少し前に出 すことで、薬師如来であることを表現しているものも多い。 ★薬師如来の脇侍~日光&月光菩薩。もしくは十二神将。薬師如来
のいるお堂を24時 間診察OKの病院に例えると、如来がドクター、日光菩薩が昼勤の 看護婦、月光菩薩が 夜勤の看護婦、十二神将が病院のガードマンといった感じ。 ・月光菩薩…智恵の仏。向かって左側。 ・日光菩薩…慈悲の仏。向かって右側。 ・十二神将…薬師如来の警護を担当。魔物だったが説法に感動して 味方になった。各神 将は7千人の配下を率いており(計8万4千の軍勢)、頭上に干支 の動物を冠して全方 角を守っている。 ※せっかく病気を治そうとしている薬師如来に、極楽行きを願う「 南無阿弥陀仏」を唱 えるのはシャレにならないので、絶対に避けるべし。ブラック・ユ ーモアもいいとこ。 ※仏教伝来から平安時代中期までは、薬師如来の方が阿弥陀如来よ りも民衆に慕われて いたが、平安末期に阿弥陀への信仰を説く法然や親鸞が登場したこ とで人気が逆転した 。 南無阿弥陀仏ならぬ、南無薬師如来! この藤原時代(平安後期)の薬師如来は、一見とても目付きが悪く 見えるが、これは 何千、何万もの巡礼者に触られて表面がすり減った為だ。眼病を患 う人は眼を、耳を患 う人は耳を、というように、各人が患部を触っていった結果こうい う姿になったのだ( 唇もえらくすり減っている)。身を犠牲にしてまで人々を救おうと する薬師如来像に、 心から感動した! ------------------------------ ------------------------------ ----------------- ●大日如来~密教(真言宗)にのみ登場する特殊な如来で最高仏。 宇宙そのもの。すべ ての仏像は大日如来が時と場所を超えて変化した姿とされている。 仏の中の仏。真言宗 のお寺なのに本尊が大日如来じゃなく、釈迦如来や薬師如来だった りする場合があるけ ど、それは結局どの如来に手を合せても、真の姿は大日如来になる からだ。大日如来を 中心に宇宙の構造を図で示したものが曼荼羅(まんだら)。大日如 来は坐像しか彫られ ていない。別名、毘盧遮那(びるしゃな)如来で奈良の大仏はコレ 。 ★大日如来の印相~智拳印(ちけんいん)は忍者が忍法を唱える時 のポーズ。左手(不 浄、悪)を右手(善)で包み制するのだ。 ※如来だが例外的に宝冠やアクセサリーを身に付けている。 ★大日如来の脇侍~阿弥陀如来や釈迦如来という豪華版! 〔もっと詳しく〕 ※大日如来…宇宙の姿を仏で表したもの。古代インド語(サンスク
リット)では「マハ ーバイローチャナ」、漢字(音写)では「摩訶毘盧遮那仏(まかび るしゃなぶつ)」と 書かれる。真理(理)と智恵の活動(智)そのものであるとされ、 「大日経」が説く“ 理”=胎蔵界大日と、「金剛頂経」が説く“智”=金剛界大日の両 界から宇宙が構成さ れているとみる。仏像で表現する時は、手の平を組み合せた禅定印 を胎蔵界大日、左手 の人差指を右手で包む智拳(ちけん)印を金剛界大日と表現する。 ※曼荼羅(まんだら)…密教の宇宙観や悟りの境地を描いた仏画。 サンスクリットのマ ンダラ(円、本質)が音写された。大日如来を中心として周囲に諸 仏を配し、宇宙が仏 で満ちていることを伝える。「大日経」を表した胎蔵界曼荼羅では 、白蓮に座す大日如 来を4如来&4菩薩が囲み、その周囲に444の仏像を描いて“理 ”を象徴し、「金剛頂 経」を表した金剛界曼荼羅では、9分割された画面に1461もの 仏像を描いて「智」を象 徴する。 ※真言宗…単純に密教とも呼ばれる。大日如来を本尊として崇拝す る。日常の言葉を使 用せず、真言(大日如来の言葉)を通して、身・口(言葉)・意( 心)の全てを大日如 来と一体化することで、現世における成仏(即身成仏)が可能と説 く。核となる聖典は 「大日経」「金剛頂経」の2つ。理論だけでなく実践を重視する。 密教の仏法は大日如 来→金剛薩?(さった)→竜猛→竜智→金剛智→不空→恵果→空海 へ伝わったとし、こ の8名を「付法の八祖」と呼ぶ。天台宗の密教を「台密」、真言宗 を「東密」ともいう 。 ※三密…密教の修行にある「三密」とは、指で様々な印を結ぶ「身 密」、心に仏を思う 「意密」、真言を唱える「口密」のこと。空海は特に口密を重視し たので、自分の宗派 を真言宗と命名した。大半の真言は帰依(身を委ねること)を表す オン(オーム)やナ ム(南無)で始まり、成就を表すソワカ(ズバーハ)で終わる。 ※真言…密教で仏や菩薩の言葉とされる短い呪文。サンスクリット のマントラ(“思考 の器”の意。マンダラと別)の漢訳。真言は内容よりも文字や音声 自体に無限の力を擁 しているとされ、実際に声に出して唱えることで、仏の説く真理に 近づき成仏できると 考えられている。 ------------------------------ ------------------------------ ----------------- 《その他の有名菩薩&閻魔大王》 ●弥勒(みろく)菩薩…釈迦の次に如来になることが約束されてい る人物で、56億7 千万年後に世界を救いにやって来る。現在どのように人々を救おう かと、菩薩としては 例外的に瞑想中。仏教思想では世界の中心に須弥山(しゅみせん) という山がそびえ( 高さ1億2千480万km!)、上空の兜率天(とそつてん)に彼 がいることになって いる。 ポーズは半伽思惟(はんかしゆい)といって、腰掛けて足を組み、 手の指を頬に当て物 思いに耽るものが多い。片足を下ろしている理由は、瞑想中でも苦 しんでいる者を救い に行きたいという、弥勒の居ても立ってもいられない気持ちの表れ だ。また、微笑して いる弥勒仏は、人々の救い方を悟った決定的瞬間の表情だと言われ ている。 ※兜率天の最上層が“有頂天”と呼ばれる聖地。 ●虚空蔵(こくうぞう)菩薩…智恵&慈悲の菩薩。技能や芸術の力 もあり、職人&芸術 家の守り本尊。天(虚空)の恵みを仏格化した仏であり、これに対 し大地の恵みを仏格 化した仏が地蔵菩薩とされている。 ●地蔵菩薩…釈迦の死と弥勒降臨との間の無仏世界(つまり現代) を救済する為に現れ た。実は閻魔様の正体でもある(これは意外ッ!)。大地の仏。 ●閻魔大王… 地蔵菩薩が閻魔となった時にわざと恐い顔をしているのは、早く罪 を白 状させて楽にしてやりたいという優しい親心(親は子が憎くて叱る 訳ではない)。閻魔 は刑罰を楽しんでいるのではなく、人々を愛しているからこそ、一 刻も早く極楽へ行け るように、あえて心を鬼にしているのだ。ちょっと感動、ウルウル 。(T_T) 閻魔大王は亡者を取り調べ、罪人を地獄に落とし「苦しみ」を与え る。しかし、たとえ 相手が亡者であっても、他者に苦しみを与えることは閻魔大王の罪 になる。人に苦しみ を与えることはそれほどまでにいけないことなのだ。その罪ゆえ、 閻魔大王は日に三度 、それまで従っていた獄卒(手下の鬼)や亡者たちに捕らえられ、 熱く焼けた鉄板の上 に寝かされる。亡者たちは鉄の鉤(かぎ)で大王の口をこじあけ、 ドロドロに溶けた銅 を口の中に注ぐ。大王は舌や口はもとより、喉から腸に至るまでた だれきってしまう。 仏像の閻魔大王に、アゴから下が溶け、そのまま胸とくっついてい るものが多いのはこ の為だ(この苦しみは亡者が地獄で受けるどの苦しみよりも過酷だ といわれている)。 閻魔大王は自分が最初から全ての亡者を天上界に送っていれば、日 に三度の苦しみを受 けることもないわけで、これは大王自身が一番よく分かっている。 しかし亡者が行った 生前の悪事を知ってしまうと、どうしても許すことが出来ないのだ 。閻魔大王の願いは 、全ての人々が現世において悪事をなさず、良い行いだけをするこ と。そうすれば大王 も亡者を地獄に落とさずに済むからだ。大王の願いは切実だ。 ※お寺で地蔵菩薩と閻魔像が並んでいたら、変身前後の違いを味わ ってほしい。 ------------------------------ ------------------------------ ---------------- 《明王》5つのバリエーションがある! その1.不動明王…明王軍団のボス。真言宗の大日如来の命を受け て、修行者を護って おり、必死の形相で煩悩から人々を助け出そうとしている。大日如 来自身が変化した姿 とする説もある。光背は、燃え盛る火焔。右手に剣、左手に羂索( 縄)を持つ。刀は煩 悩を断ち切る智恵の刀だ。おさげ髪を片側だけしてちょっとオチャ メ。 不動明王には坐像と立像があるが、釈迦如来で記したように「もう 座ってられん」と立 ち上がり救済に向かう姿が立像だ。 その2.降三世(ごうざんぜ)明王…シヴァ神が起源。明王のナン バー2。過去、現在 、未来、の三世の煩悩を抑え鎮める。目が三つ。足下にヒンズーの 神を踏みつけている 。左右の手の小指を結ぶという特徴的な印相だ。 その3.軍荼利(ぐんだり)明王…様々な障害を取り除く。体にま とわりつく蛇、親指 &小指のみを折った印相がトレードマーク。 その4.大威徳(だいいとく)明王…戦勝祈願の仏。顔が6面、腕 が6本、足が6本と いう異様な姿で水牛にまたがっている。印相は中指を立てつつ両指 を組むもの。 その5.金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王…金剛杵(しょ)という 仏界最強の武器を持 っている。何と目が5個もある!夜叉とは鬼神のこと。 ●愛染(あいぜん)明王…愛欲をハナから禁じるのではなく、まず 愛欲の苦悩を体験さ せ、その苦しみを教訓とし、克服することによって悟りに至らせよ うとする、一種異端 の明王。全身が愛欲の炎で真っ赤になっている。弓矢を持った愛の 仏である為、西洋の キューピッドと同一起源という説もある。 ------------------------------ ------------------------------ ---------------- 《天部》仏教に帰依した他宗教の神々。めちゃくちゃ数が多い。 ●梵天(ぼんてん)…ヒンズーの最高神だが、釈迦の思想に感心し て仏法の守護神とな る。釈迦に悟りの内容を人々にやさしく説くようにアドバイスした 。梵天がいなければ 釈迦は説法をせず、仏教はなかったとまでいわれている。刀利天( とうりてん、須弥山 の頂上)に住む。 ●帝釈天(たいしゃくてん)…元々はアーリア人の英雄神インドラ 。刀利天の喜見城( きけんじょう)に住む。仏側の戦闘部隊の総大将で、衣の下に鎧を 着込んでいる。前述 したように、帝釈天は梵天とペアで釈迦如来の脇侍になることがあ る。妻は阿修羅の愛 娘。 ●金剛力士(仁王)…帝釈天が須弥山から下界に降りて変身し、2 体に分かれた仏が金 剛力士だ。金剛杵を握り、寺門の左右で魔物が入らないように見張 っている。口を開い て魔物を恫喝しているのが阿形(あぎょう)像、口を閉じて悪人に 「ウム、入れ」 と仏前での改心を促しているのが吽(うん)形像。吽形は“悪人こ そ寺に入れて善人に 変えねば”と考えているのだ。ペアの2神は仁王とも呼ばれる。 ※阿吽(あうん)豆知識 インドの古典文字サンスクリットのa-humの音をうつした言葉 。「阿」は呼気、「吽」 は吸気を表す。阿形は息を吐き、吽形は息を吸っていることで、“ A to Z”のように「 万物」を表現している。また密教では「あ」が全ての始まりを、「 うん」は全てが帰っ ていく所を表しており、両像は生から死を象徴している。2神は一 心同体であり“あ・ うんの呼吸”の語源となっている。 ●吉祥(きちじょう)天…ヒンズーの幸運と美の女神ラクシュミー を仏教が取り入れた 。天部の神としては珍しく、やがて如来になる。鬼子母神の娘で毘 沙門天の妻。 ●弁才天…弁天とも呼ばれる。学問と芸術の女神。七福神の紅一点 であり、美人の代表 とされる。梵天の妻。 ●鬼子母神(きしもじん)…安産&子供の守護神。元々インドの人 食い悪神だったが釈 迦が改心させた。 ●大黒天…戦闘神だったが鎌倉時代からなぜか七福神の一人に。 ●阿修羅…帝釈天と互角に渡り合った悪の最強戦闘神。元々は正義 の神であったが、あ まりに正義感が強すぎた為に人を許す慈悲心を失い魔物化した。後 に釈迦の教えに感銘 し、仏法の守護神となる。 ※鬼神・阿修羅が帝釈天と戦う場所を“修羅場”という。 ●四天王…仏が住んでいる須弥山の中腹で、下界から攻め上がって 来る魔物たちを退治 している。甲冑(かっちゅう)をつけ、足元に邪鬼を踏みつけてい る像が大半。全員が 帝釈天直属の部下。四天王には八部衆(阿修羅、ガルーダ=カルラ 、夜叉、ダイバ、ナ ーガ、キンナラ、マホーラガ、ガンダルバ)と呼ばれる配下がいる 。 東→持国天…武器を持つ。 南→増長天…武器を持つ。鬼神の長。 西→広目天…筆と巻き物を持つ。説得によって悪鬼を改心させる。 北→多聞天(毘沙門天)…釈迦の遺骨を納めた宝塔を持つ。鬼門の ある北を守っており 、四天王の中で最強。“多聞”とあるように、仏の教えを多く聞き これに精通している 。また、単独で祀られるときは毘沙門天と名が変わる。妻は吉祥天 。 ラブラブの毘沙門&吉祥天。ヨッ!オシドリ夫婦! ※仏たちが集い住む須弥山の図はこちら 《その他の仏像》 ●十大弟子…釈迦の全1250人の弟子の中の高弟10人。 ※仏師西村公朝さんの一行解説→ 舎利弗(しゃりほつ)天才肌の一番弟子/智慧第一 目連(もくれん)もうひとりの高弟、超能力者/神通第一 阿那律(あなりつ)眠らない修行でついに失明/天眼第一(釈迦の従兄弟) 優波離(うばり)もと理髪師の愛嬌者/律第一 富楼那(ふるな)商人あがりで説法上手/説法第一 迦旃延(かせんねん)わかりやすい教えの伝道の達人/論義第一 須菩提(しゅぼだい)“空”をもっともよく理解した人/解空第一 羅羅(らごら)お釈迦さんのひとり息子は荒行者/戒行第一 阿難(あなん)お釈迦さんのハンサムな秘書役/多聞第一 大迦葉(だいかしょう)教団の二代目は清貧の人/頭陀第一 ※大迦葉が教団を継いだ時、先輩の舎利弗と目連は既に他界してい た。 ●五百羅漢(らかん)…釈迦の500人の弟子。石仏が多い。 ●無著(むちゃく)&世親(せしん)…5世紀にインドで修行して いた学僧兄弟。 ●役行者(えんのぎょうじゃ)…本名、役小角(えんのおづぬ)。 奈良時代に実在した 山岳修行者。 ●空也上人(くうやしょうにん)…平安時代の修行僧。念仏を唱え ながら諸国を遍歴し た。口から六体の阿弥陀仏が飛び出すという、凄いインパクトの像 がある。 ------------------------------ ------------------------------ ---------------- 《さらに覚えておきたい4つのポイント》 ●仏像の造り方 一木造り(いちぼくづくり)…1本の木から掘り出す。 寄木造り(よせぎづくり)…全身を部分ごとに彫って、プラモデル のように合体させる 。これなら巨像の制作が可能! 脱活乾漆(だっかつかんしつ)造…張り子状に内側を空洞にした造 り方。土で原型を造 り、その上から麻布を何重にも漆(糊)を塗って貼り重ね、内部の 土をかき出して背骨 の木を入れ、表面に木屎漆(木屑と漆を混ぜたもの)を盛っていく 方法。形の維持に高 価な高純度の漆が必要。費用がかかるので奈良時代以降は途絶えた 。 ●合掌の意味 インドでは人間の身体を左右に分け、右側を清浄、左側を不浄なも のとしている。これ は右手=仏、左手=人間を指し、これらを合わせることで仏と自分 が一体となることを 表している! ●日本美術史上最高の彫刻家、運慶 ちょうど源平の合戦の時代、つまり貴族社会から武家社会へ移行す る激動の時代を生き た。運慶の仏像が、単に格調高いだけでなく、非常にワイルドなの は乱世を反映したゆ えだ。また、仏師が自分の彫った仏像にサインを入れたのは運慶が 初めて。運慶には芸 術家のような作家意識があったのかも。東大寺南大門には“チーム 運慶”が作った全長 8.4mの仁王がいるが、それよりも巨大な4体の四天王(各13 m!)は燃えてしま って現存せず、残念極まりない。 ※運慶のファミリーは全員が高い技術を持った名仏師。それぞれの 代表作は 康慶(運慶の父)…法相六祖坐像(興福寺)、不空羂索観音坐像( 興福寺南円堂) 運慶…大日如来坐像(円成寺)、金剛力士・阿形像(東大寺南大門 )、無著&世親立像 (興福寺)、毘沙門天立像(願成就院) 湛慶(長男)…千手観音坐像(三十三間堂)、金剛力士・吽形像( 東大寺南大門)、仔 犬(高山寺)、運慶像(六波羅蜜寺) 康弁(三男)…竜燈鬼立像&天燈鬼立像(興福寺) 康勝(四男)…空也上人立像(六波羅蜜寺) ●白鳳&天平時代 美術史では飛鳥時代の後半、つまり645年の改新から710年の 平城遷都までを『白 鳳(はくほう)時代』と呼び、710年から794年を奈良時代と 呼ばず『天平(てん ぴょう)時代』と呼ぶ。コレ重要! ------------------------------ ------------------------------ ----------------- 《オマケ~禅寺と枯山水庭園について》 禅の開祖はインド生まれの菩提達磨(ボーディ・ダルマ)、あのダ ルマさん!ちょうど 聖徳太子と同時代に中国で活躍していた。禅は仏教の修行のひとつ で、瞑想して心身を 統一し、無我無心の境地に到達するのが目的なんだ(ダルマの“面 壁九年”もその一環 )。. 禅宗の簡単な特徴を書くと・・・ <神(仏)のいない宗教である <特定の拝む対象のない宗教である <“足ることを知る”宗教である <「自己」を拝む宗教である。なぜならこの身(自己)こそが、即 ち仏だからだ! と、けっこうカッチョイイのだ。 簡素静寂を重んじる禅寺の庭は“枯山水”という様式で統一されて いる。“枯山水”の 庭は読んで字の如く、水を用いることなしに、敷き詰めた砂利と石 を巧みに組合わせ、 大海に浮かぶ島々や、雲海から突き出す山々を表現した、シンプル かつ壮大なスケール の庭のことだ。石の数は縁起の良い七、五、三をプラスした15個 か、シンプルに七個 の石にしぼって置いてある。 枯山水の難しさは、石の配置場所はもちろんのこと、庭の背後にあ る壁の色、瓦の形、 生垣の高さ、木の種類、そういった枯山水を取り囲む周囲の造形に も言えることだ。 水なくして水の趣を表現する枯山水の庭は、芸術作品をこえて、ひ とつの小宇宙を形成 している。砂利で作った水の流れは“渦巻き”や“よどみ”まで見 事に表現しており、 そういった造形美も見事ながら、500年近く石庭を維持し続けた 各時代の住職たちの 努力に、惜しみない賛辞を送りたい。 ------------------------------ ------------------------------ ----------------- 《オマケ2~塔の話》 大きなお寺に行くと三重塔や五重塔があるけれど、いったいあの塔 は何のためにあるの か?何か意味があるのか?結論から言うと、基本的にあれは釈迦の “お墓”である!つ まり仏教寺院では塔こそが最重要建築物なのだ。 インドで釈迦が亡くなった時、弟子たちは仏舎利(ぶっしゃり=釈 迦の遺骨)を8つに 分け、それをストゥーバと呼ばれる供養塔に納めて祀った。また遺 骨以外に髪や爪、所 持品を納めた塔も建てられ、それら全てが崇拝の対象になった。 B.C.250年頃、インド史上最大の名君として名高いアショー カ王は、仏教を広めるた めにストゥーバから仏舎利を取り出し、それを8万4千個に分けて 同数のストゥーバを 建てた。ストゥーバという言葉は日本に伝わった時に卒塔婆(そと ば)と置き換えられ る。現在、卒塔婆は墓石の背後に立てる供養板のことをいうが、当 初は大陸からもたら された仏舎利を祀る供養塔を指した。 時が経つにつれ、遠くからでも卒塔婆(供養塔)が見えるようにと 、台座の部分が次第 に高くなっていく。現存している各地の塔は、てっぺんがアンテナ のように突き出てい るが、あの部分は元々地上にあった卒塔婆だ。つまり、どの塔もて っぺんだけが重要な のであり、そこから下はただの付け足しというわけだ。 ただし、古代の寺院の塔は仏舎利を納めたが、後の時代は経典や仏 像を納めた。 世界最古の木造建築として、ユネスコの世界遺産に日本で最初に登 録された法隆寺は、 五重塔のてっぺんと内部中心の柱の2ヶ所に仏舎利が納骨されてい る。…しかし本当に 釈迦本人の骨が、はるばる海を渡って奈良までやって来たのだろう か。自分は失礼とは 思ったが、恐る恐る法隆寺でお坊さんに信憑性を尋ねてみた。疑っ て反省!遺骨は米粒 ほどの大きさで、毎年元旦から3日間、午後1時に舎利講という実 際に仏舎利を前にし た法要をしているし、また仏舎利がインドからどういうルートで法 隆寺まで来たのか、 分骨に分骨を重ねて仏舎利が小さくなっていく過程までを、詳細に 記した巻物も現存し ているとのことだった。 ------------------------------ ------------------------------ ----------------- 《あとがき》 どんなに尊く神々しい仏像であっても、ひとつとして最初からこの 世にあったものはな く、すべて僕らと同じ人間が彫ったもの。自分は出会った仏像が荘 厳であればあるほど 、このように崇高なものを生み出すことが出来るという、人間の無 限の可能性に感動す る。阿弥陀仏や観音菩薩が持つ救済の力ではなく、これらを彫り上 げた仏師が、人間の うちに“かつて存在した”という事実に胸が熱くなる。 仏像はどれだけ眺めていても見飽きることがない。少し見る位置を 変えるだけで全く新 しい表情を見せてくれるし、朝夕で見る時間が違えば光の変化で随 分印象が変わる。で も、角度や光線の違いだけが見飽きぬ理由ではない。 苦しむ人々を慈愛で包む仏像は「ただの人間」が作った。だからこ そ、見飽きない。自 分はそう思う。 ※参考文献 ・日本の美をめぐる 4号、11号、19号 (小学館) ・古都ほとけ出会い旅 (日本放送出版協会) ・仏像の見方 (池田書店) ・仏像/鑑賞の手引 (フジタ) ・古寺をゆく別冊/仏像の手帖 (小学館) ・エンカルタ百科事典 (マイクロソフト) その他、多数。 特に最初の“日本の美をめぐる”と次の“古都ほとけ~”はオスス メです。
2016年11月18日金曜日
仏像と人の関係
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