北川の堤防を若狭湾に向かい歩いていくと、「羽賀」と言う道標があり、さらに
進むと杉の木立ちが斑模様の日陰を作る参道が続き、石の階の先に羽賀寺が
顔を見せている。
私を手招きしている様でもあり、ゆっくりと進んだ。
入母屋造りの檜皮葺きの本堂が大木の杉の木々を後背に悠然と立っていた。
この寺は元正天皇の霊亀2年(716)、行基の草創であるが、村上天皇
や後花園天皇、後陽成天皇など多くの天皇の庇護があったという。
室町時代の面影が感じられる建物である。厨司が開いて、すらりとした
十一面観音が、ろうそくの織り成す火影のもとに浮かび上がった。
そのきらびやかさに思わず眼が行った。切れ長の大きな眼、ふっくらとした優しさ
の頬と気品の高い唇、頭上の仏面も含め女性のやわらかさが伝わってくる。
十一面の頭上仏はこの全体の醸し出す空気の中では、むしろ控えめ戴いている
感じが強い。
また、渡岸寺のイメージが強いのか思ったより華奢なお姿であるが、
残っている金色と紅色の彩色の鮮やかさ、天衣の緩やかな流れの先にある
細く伸びた指は美しさ、元正天皇の御影とされたのも、何と無く分かる。
全体に若々しい観音様である。全身から漂う幼いふくらみ、その指、その掌の
清潔で細微な皺、頬に差し込む蝋燭の火影の漆黒と金箔の綾、その鬱したほど長い睫、
小さな額にきらめく池水の波紋の反映に、ひたと静まる空気感がある。
時代は平安初期、檜の一本造りで、このような仏像が、若狭にあった、自分の
不勉強さに思わず目をつむる。
2016年1月31日日曜日
2016年1月30日土曜日
白山本地堂の十一面観音を拝顔す
(白山本地堂の十一面観音)
お堂の中に入る。思わず頬が緩むのを感じた。
金色の壁と新しさが残る襖や 障子に いつもの陰影ある観音像のお姿とはだいぶ違う。
ろうそくの織り成す火影の揺らめき、 直線に差し込む陽の光の中に浮揚する小さな塵
と香のたおやかな粒子たち、それらが 一つの連続したつながりの中で作り出していく
世界であるはずであった。
しかし、 眼の前の情景は彼の想いとは大きな差異をみせ、そこにあった。 正面には
展示会のような趣きで須弥壇があり、下山仏七体が横一線に並んでいた。
自ずと目は中央の十一面観音坐像に向けられる。きらびやかな姿である。
金色に輝く 光背に包まれるかのように坐っておられる。両脇の阿弥陀如来坐像、
聖観音坐像 よりも一段高い形であるためか少し威圧を受ける。硬く真一文字に結んだ唇
と 伏目がちな眼差し、柔らかさよりも強さがにじみ出てくる、体全体からもそのような
空気が伝わる。頭上の十一の仏面よりも額の飾りに気が行く。
しかし、中尊である この像の前に再び仰ぎ見れば、七体の仏像の力がそこに集まるかの
ように我が身に 降りかかる。硬く結ばれた唇が開かれ、今までの己を恥と感ぜよ、
そんな言葉が 聞こえてくるようだ。残照のごとく残る鍍金が連鎖の如き光となって我が目
に 宿り、曇りきった目に一条の光を通そうとしている、
彼はやや苦痛を伴う膝に 意識が行くのを思いながらもじっと観音像と対峙していた。
やがてその呪縛から 解かれた如く大きな息とともに、目を左へと動かし銅造りの
十一面観音の静かな 立姿を見る。すんなりと言う言葉がよく似合い、そんな雰囲気
を醸し出しているが、 70センチほどの高さのためか、他の仏像の中に埋もれている、
そんな考えが 一瞬浮かび、そして直ぐに消えた。
頂上の仏面が目立つが少し硬い頬、やや薄い唇、 すっと伸びた鼻、厳しさのこもる
お顔である。右手は緩やかに手を下へと伸ばし、 細くしなやかな指が何かを差している。
よく見かけるような腰の括れはなく、 衣は静かに下に落ちている。
造られた時は金色であったという、目を閉じ、それを 心の中に描いてみる。
数段大きくなったその像が迫ってくるようだ。
また一つ心の傷が癒えた、そんな気持でお堂を出た。
お堂の中に入る。思わず頬が緩むのを感じた。
金色の壁と新しさが残る襖や 障子に いつもの陰影ある観音像のお姿とはだいぶ違う。
ろうそくの織り成す火影の揺らめき、 直線に差し込む陽の光の中に浮揚する小さな塵
と香のたおやかな粒子たち、それらが 一つの連続したつながりの中で作り出していく
世界であるはずであった。
しかし、 眼の前の情景は彼の想いとは大きな差異をみせ、そこにあった。 正面には
展示会のような趣きで須弥壇があり、下山仏七体が横一線に並んでいた。
自ずと目は中央の十一面観音坐像に向けられる。きらびやかな姿である。
金色に輝く 光背に包まれるかのように坐っておられる。両脇の阿弥陀如来坐像、
聖観音坐像 よりも一段高い形であるためか少し威圧を受ける。硬く真一文字に結んだ唇
と 伏目がちな眼差し、柔らかさよりも強さがにじみ出てくる、体全体からもそのような
空気が伝わる。頭上の十一の仏面よりも額の飾りに気が行く。
しかし、中尊である この像の前に再び仰ぎ見れば、七体の仏像の力がそこに集まるかの
ように我が身に 降りかかる。硬く結ばれた唇が開かれ、今までの己を恥と感ぜよ、
そんな言葉が 聞こえてくるようだ。残照のごとく残る鍍金が連鎖の如き光となって我が目
に 宿り、曇りきった目に一条の光を通そうとしている、
彼はやや苦痛を伴う膝に 意識が行くのを思いながらもじっと観音像と対峙していた。
やがてその呪縛から 解かれた如く大きな息とともに、目を左へと動かし銅造りの
十一面観音の静かな 立姿を見る。すんなりと言う言葉がよく似合い、そんな雰囲気
を醸し出しているが、 70センチほどの高さのためか、他の仏像の中に埋もれている、
そんな考えが 一瞬浮かび、そして直ぐに消えた。
頂上の仏面が目立つが少し硬い頬、やや薄い唇、 すっと伸びた鼻、厳しさのこもる
お顔である。右手は緩やかに手を下へと伸ばし、 細くしなやかな指が何かを差している。
よく見かけるような腰の括れはなく、 衣は静かに下に落ちている。
造られた時は金色であったという、目を閉じ、それを 心の中に描いてみる。
数段大きくなったその像が迫ってくるようだ。
また一つ心の傷が癒えた、そんな気持でお堂を出た。
添付ファイル |
2016年1月28日木曜日
白洲正子、かくれ里より
かくれ里では、十一面観音の記述は少ないが、、「本尊はいうまでもなく、白山の
本地十一面観音だ。」という。白山信仰について興味を誘う。
さいわいこの地方には古くから織物の伝統があった。延喜式にも、美濃は「上糸国」
とされており、特に耕地の少ない北部では、曾代系といって、伊勢神宮に納める
上質の糸を作っていた。そういう土地柄だから、一般農家でも織物はさかんだった。
宗広さんはそこへ目をつけたのだが、、、、、、、
今度は製品を売りさばくのに困ってしまった。
私はその人物と作品に興味を持った。織物はまだ充分な形をなしていなかったが、
とかくごまかすことしか知らない商人、というよりごまかす事が技術であり、
美徳であるような工芸の世界に、これだけ一風変わった新鮮な味を持っていた。
近頃の手織りの欠点は地方の特色をなくした事である。有名な産地ほど、
その傾向が強い。
素人っぽさとか、うぶさと言ってもいいが、土地に染み付いた土の香り、
そういうものが彼の織物にはあった。えてして相したものは消えやすい。
その人柄から見て、心配はなさそうだが、将来のことはわからない。
一体どんな所でどんな人が織っているのだろう。半ば好奇心と商売気から、
白鳥村を訪れたのは、その翌年の春のことである。
開拓部落は、聞きしに勝る貧しさで、辛うじて生活しているといった状態、
よくもこんな所に住んでいられると思うような荒涼とした原っぱにすぎない。
その夜は宗広さんのお宅にご厄介になったが、家といっても掘っ立て小屋
見たいなもので、その中に藍瓶を置き、手を真っ黒に染めている姿に、私は
心を打たれた。周りの畠には紅花やかりやすなど、植物染料のたぐいも
育てられている。糸から染めにいたるまで、一貫した作業が行われており、
織るのは村の人たちも手伝った。それにしても無一文の人間が、千人近くの
大世帯を支えているのは大変な重荷であろう。泥まみれの後姿を見て、
私は好奇心からこんな所へきてしまったことを恥ずかしく思った。
、、、、、その間に宗広さんは自力で大きく育っていった。「郡上つむぎ」
といえば、染織界では有名で、伝統工芸の賞も既にいくつか獲得した。
今や彼は一流作家であり、押しも押されぬ一方の旗頭である。だが、その
人柄が変わらぬように、織物も初めのうぶさを失っていない。どちらかといえば
そんな風にのびていくのを見るほどうれしいことはない。開拓村の方も
順調に発展し、国から借りていた土地も、概ね個人の所有に帰しているという。
、、、、、、、、
長良川に沿って、快適なドライブを楽しみつつ北上すると、一番初めにくる
大きな町は関市である。ここの春日神社には、桃山時代の能装束がたくさんあり、
博物館の展覧会などで拝見しているので、ちょっと敬意を表しによってみる。
町と言っても、大通りを外れると閑散とした風景で、神体山を背景にささやかな
神社が建っており、今日は神主さんもご不在で、拝見する事はできないが、
道草好きの私にはかえってそのほうがよかったかもしれない。
能装束といえば、これから行く長滝の白山神社にも、古い面や装束がある。
ことに鎌倉時代の稚児の面はすばらしく、能面の本にも載せさせて頂いたが、
いずれも博覧会で見ただけで、神社を訪ねていないのが、心残りだった。
美術品は、その生まれた場所で見るとまた格別な味わいがある。それにしても、
このような山奥に多くの名品がかくれているのは不思議だが、1つには
白山信仰と関係があり、越前にちかいためもあって、そういうものが街道筋に
散らばったのであろう。今でこそ山間の僻地だが、昔は長良川沿いに特殊な
文化が開けていた。石器時代から縄文、弥生へかけての遺跡もあり、昔の
人々にとって、川と言うものがどれほど大きな役目をはたしたか、また
その川が流れ出る山が崇められたのも、自然の成り行きだった事が分かるのである。
美濃紙で有名な美濃市をすぎる頃から山が迫ってきて水はいよいよ澄んで来る。
空気がいいせいか、この辺の紅葉はひとしくお美しく、名もない雑木が様々の
色に染まりつつ、反射しあっている様は、誠に「錦繍の山」という形容に
ふさわしい。それは能の衣装にも、宗広さんの紬にも共通する日本の色
であり、ニューアンスともいえよう。
白鳥へはやはり国体の余波でいい道が出来、末は越前の大野まで続いている。
私たちは、1時間たらずで長滝の白山神社の境内に立っていた。
昔、この村に美しい白鳥が住んでいた。ある日、1枚の羽を落として飛び去ったが
村の人々はそれを神の化身と信じ、形見の羽を祀ったのが、白鳥の名の起りである
という。羽衣の天人とか、日本武伝説の原型と思われるが、そういうものと
結びつかなかったのは白山比売の化身、もしくは魂と信じられたからに違いない。
後に泰澄大師が白山を開いたときも、その白鳥が現われて案内したと伝えている。
ここに養老の初めの頃、泰澄が開いた長滝寺という名刹があった。一名、美濃馬場
ともいう。白山をめぐって、加賀にも越前にも馬場と名づけるところがあるが、それは
古代の祭り場を現しているとともに、また実際に馬を乗り捨てて、ここからは徒歩で
登る慣わしがあったらしい。白山の登山口として、最初からあった山口の神社に
長滝寺が合体し、山岳信仰の中心をなしていたが、明治の廃仏毀釈によって、寺は
壊滅し、再び当初の姿に戻ったというわけである。、、、、、、
千年の歴史を滅ぼした罪は重い。
だが、さすがに古い社は荒れはてても、どこか静かな落ち着きがあって、昔の面影が
失われたわけではない。千年の樹齢を持つ杉の大木、正和の銘のある見事な石灯篭
お寺の講堂のような拝殿など、何もかも大きく、ゆったりして、かっての壮観を
ほうふつとさせている。特に神さびた本殿は美しい。神社の事だから、何度も
建て替えたにちがいないが、伊勢神宮と全く同じ神明造りで、伊勢より一回りも
大きそうである。
宮司の邸も古い建築で、杉の柾目の総づくりよいうのは珍しい。宮司さんは、
若宮さんといって、現在は29代目で、平安時代に奈良から移ってこられたという。
庭前の紅葉を眺めながら、お茶を頂いたあと、宝物館へ案内してくださる。
まず目に付くのは先に書いた稚児の面で、一応「延命冠者」ということになっているが
、
能面よりずっと古い時代の作で、しっかりした彫刻とうぶな色彩が美しい。、、、、
この神社では毎年1月6日に「花奪祭り」という神事が行われる。
6日祭りとも言われている。拝殿に高くつった花笠を奪い合う行事で、荒っぽい
のは山伏の伝統であろうが、その花をもって帰ると蚕がよく育つという信仰があり、
祭りの時には日本全国から織物関係の人たちが集まってくるという。
それは古代の花祭り、稲の花をかたどって、豊作を祈る行事に養蚕が加わって
行ったのであろう。白山の信仰には、色々なものがくっついてわからなくなって
いるが、初めの神様を菊理比売(くくりひめ)といい、蚕と織物の守り神であった。
いま、東本殿に祀ってある「衣襲明神」がその後身であるが、まさに庇を
貸して母屋を取られた形で、最初は菊理比売だけを奉じていたのが、だんだん
格の高い神に合祀されて行ったのであろう。
が、私が面白いと思うのは、いくらたくさんのものがくっついても、民衆の
信仰は、常に初めの神とともにあるということだ。生活を離れて信仰はない。
この神社を支えたのは、仏教でも神道でもなく、太古さながらの農業の神であり、
特に蚕が中心になっている。6日祭りは千年も続いているというが、それは
誇張ではあるまい。あるいは、それ以前から続いていた祭事であったかもしれない。
そして、その祭りにはくくり姫が現われて舞う事があったろう。あの美しい面は
実は延命冠者でもちごでもなく、そのときつける面ではなかったであろうか。
中尊寺の同型の面が、「若女」と呼ばれること、また、「白山権現」と記して
あるのを思うとき、それは男の面ではなく、白山のご神体であったように
思われる。、、、、
そういえば、6日祭りには、延年の舞が行われるという。延年は、日光の輪王寺
と、平泉の中尊寺にしかない古式の芸能で、ここに来て私は、はじめて
白山神社にも伝わっている事を知った。
--------
平泉寺は勝山市の郊外にある。福井から九頭竜川を東へ遡ると30分余りで
勝山に着く。勝山の南で、九頭竜川に分かれ、支流の女神川にそってしばらく
行くと、話に聞いた参道が見えてくる。入り口の森を「菩提樹林」というが、
実は林ではなく、林のようにうっそうと茂った並木道なのである。左手に
大師山、右に三頭山、そのはるかかなたに白山も望めるはずだが、
今日は霞んでいて見えない。参道の両側は谷で、台地の尾根伝いに登って
行くが、昼なお暗い大木の杉並木は。聞きしに優る見事さで、行けども
行けども寺へは着かぬ。やがて、目の前が明るくなり、ゆるやかな石段が
見えてきて、「平泉白山神社」と記した石標似つきあたった。山門も
鳥居もなく、小さな茶屋が、二軒あるきりの門前は、永平寺とは
打って変わった静けさである。石段を登った左手に平泉さんのお住まいが
ある。平泉家は、桃山時代からつづいた平泉寺の別当で、庭は室町時代
に造られたもので、人手がないために少し荒れているが、10何種類もある
という苔の緑は、目が覚めるように鮮やかである。境内を歩いてみると
平泉寺について、私の知識は皆無であったが、余程大きな寺だったらしく、
方々に礎石や石垣が残っており、杉の林は全山苔でおおわれている。
それも排気ガスと観光客で痛みつけられた京都の寺院とはちがって、
季節としては決していいとはいえないのに、ビロードをしきつめたように
ふっくらと盛り上がり、木洩れ日に光る景色は実に美しい。
平泉家をでて、少し登ったところ、左手に「平泉」の元である霊泉がある。
今でも豊かに水があふれており、そこから流れ出た水は、かたわらの
「御手洗池」に注いでいる。その横に三角型に仕切った石畳があって、真ん中に
一本、そして三つの隅に一本づつ神木の杉が植わっているが、これは
白山の三山(大御前、別山、越南知おなむち)をかたどったものだろう。
後に知ったのだが、なんでも三つに分けるのが、白山信仰の形式らしく
登山口も、美濃馬場の長滝寺、加賀馬場の白山本宮、そして越前の平泉寺
に分かれている。三つの国にまたがり、三つの峰に分かれているのが、自然に
そういう形を生んだのである。「馬場」の名がはじめて史上に現われるのが
平家物語で、そこから先は馬を乗り捨て、徒歩で登るのが決まりであったという。
平泉の霊泉辺りは禁足地であったようで、古い石垣の跡が残り、そこから木立ちの
中を少し登ると、鳥居が見え、その奥に拝殿が望める。山王鳥居というのか、
日吉神社と同じ様に真ん中が山形になっているのは、山岳信仰を現している
のであろう。突き当りの石段を登った所が、本社で、左右に越南知と別山を
祀ってあるが、大きな石垣にそって、右に登っていくと、まるでケルンといった
具合にこわれた石物や石塔がるいるいと積み上げられ、一向一揆の暴力によるのか
廃仏毀釈の破壊によるのか、私はしらないけれど、この寺が経てきた厳しい
歴史を物語っている。その上方に大きな楠公の五輪塔が立っているが、これも
寄せ集めの石らしくやはり同じ時に壊されたのを、復元したものにちがいない。
そのあたりから、白山へ登る山道がついていて、ここまで来るとさすがに
深山らしい気配に満ち、冷え冷えとした空気が身に沁みる。が、苔の緑が
鮮やかなので、暗い感じは1つもなく、すぎの梢をすかして、ずっとしたまで
見通せる景色は気持がいい。
平泉寺に残っているのは、要するにすぎの大木と苔だけで、建物も仏像も
石造美術もない。それがいっそうさっぱりしていた。なんのことはない、
私は苔にひかれてお参りしたわけで、そのときは、それだけで帰ってきた。
、、、、
それから間もなく、私は美濃の長滝寺を訪れた。面を見るのが目的であったが、
そこでも白山信仰と泰澄大師の足跡にふれ、その周辺には、白山神社が
百以上も現存する事を知った。お生みの湖北を訪ねた時には渡岸寺をはじめとする
多くの寺院が泰澄大師の開基を伝え、白山の本地仏である十一面観音を祀っていた。
お膝元の越前は、もちろんのこと、行く先々に白山神社があり、大師の信仰が
今も根強く残っている事に驚くといった具合で、それまで縁もゆかりも
なかったものに、次第に興味を覚えるようになって行った。というより、
興味を持ったために白山とか最澄と言う名前が、耳に止まる様になった。
越前には平安朝に書かれた「泰澄大師伝」が伝わっており、「越の大徳」
とも呼ばれていた。様々な古文書からは泰澄大師は、山岳信仰の創始者で、
神仏習合の元祖であると言っていい。私はこの思想が、日本の全ての文化に
わたる母体とおもっているが、泰澄は役行者ともほぼ同時代の人で、
行基、玄坊も共鳴したとすれば、そういう機運はあらゆる所に
芽生えていたに違いない。よく知られているのは、東大寺建立に際し、
宇佐八幡が勧請されたことで、史上に現われた垂迹思想の嚆矢とされる。
周知の通り、本地垂迹とは、仏がかりに神の姿に現じて、衆生を済度
するという考え方だが、それは仏教の方からいうことで、日本人本来の
心情からすれば、逆に神が仏に乗り移って影向ようごうしたと解すべき
であろう。その方が自然であるし、実際にもそう言う過程を経て発達した。
泰澄でいえば、白山信仰の長い歴史があったから、仏教が無理なく吸収され
神仏は極めて自然に合体する事を得たのである。、、、
越智山も、三十八社(産所八社で泰澄の産所)からはあまり遠くない。
この山は、丹生郡に属し、越前岬の東方にある。近づくにつれて、なだらかな
山容が見えてくるが、「越智」と言う名前からして、古くは越の国の神山
だったのではあるまいか。見かけより深く、嶮しい山で、奥の院は女人結界
の魔所になっていたといい、東に白山、西に日本海を望む風景は、この辺きっての
雄大な眺めである。少年泰澄が籠もったのは、そういう景色の神山であった。
あしたには白山に日の出を拝み、夕べは落日に染まる日本海を眺めたに違いない。
十一面観音が現われたのは、そういう瞬間ではなかったか。その面影を慕って、
白山登頂を思い立った。現代の登山家は山を征服するというが古代の人々は
はるかに敬虔な気持で、自然と一体化するする事を望んでいた。両者に共通
するものは、止むに止まれぬ山への憧憬で、そういう意味で、登山と言うもの
は、極めて官能的なスポーツであり、信仰でもあったと私は思う。
白山は越前平野のどこからでも望めるが、越智山からは真東に当たり、太陽の
信仰ととも関係があったのではなかろうか。三つの峰が、一望のもとに見渡される
のも、越智山の方角からで、あるいは白山の遥拝所の一つだったのかもしれない。
泰澄が晩年を送ったという大谷寺は、麻生津と越智山の中間にあり、街道から
石段を登った所に、ささやかなお堂が建っている。前は蓮池で、この蓮糸で曼荼羅
を織ったという中将姫の伝説も残っている。お堂の脇を入った所に、大師の
墓と伝える九重の石塔があるが、鎌倉頃の作で、キチンと整備されているのは、
信仰がまだ生きている証拠であろう。そこから少し登った平地に、「御本地堂」
があり、本尊はいうまでもなく、白山の本地十一面観音だ。
越智山、大谷寺、泰澄寺、そしてさらに平泉寺へと、泰澄の道はまっすぐ白山
を目指している。泰澄はやはり三上の祝はふりの血を受けた、古代シャーマニズム
の代表者であったのだ。役行者と混同されたり、また役行者をモデルにした架空の
人物といわれるのも理由がないことではないが、実在しもしない人間に、こんな
多くの伝承が残り、信仰が伝わる事がありえようか。
麻生津から平泉寺へ向う途中、九頭竜川の岸に、小舟渡と称する村があり、そこに
「伏拝」と言う場所がある。白山の遥拝所の1つで、清黎な河原を隔てて、山の
全貌がくっきりと見渡せる。丁度川が迂回する地点にあるので、清らかな流れが
小波たてて、白山からこちらに向って流れてくるように見える。泰澄もそれから
後の行者たちも、この神奈備の地で禊をして、山に向って奇岩を込めたのであろう。
、、、、、、
一時は六千坊といわれた修験道の本山で、多くの僧兵を擁した平泉寺も、今は
菩提樹の奥深く、眠るが如く静まっている。四万五千坪もあるという境内は、
深閑としていることに変わりはない。平地は暑かった越前も、ここまで来ると
別天地で、水を含んだ苔は秋よりも美しいく、すぎの木立ちも生き生きして見える。
平泉寺のお庭には、紗羅双樹の花が咲いていた。椿に似て、椿よりぱっちりした
清楚な花で、ほのかな芳香が周囲にただよう。渡しは生まれて初めて見たのだが、
いかにも釈迦の涅槃にふさわしい花である様に思った。
丁度日が落ちる頃で、斜光の中に苔は輝きを増し、やがて長くひいた木立ちの
影に、刻一刻と沈んでいく。白山の雪も、茜色に染まっていることだろう。
先ほど、伏拝から眺めたとき、この夏の最中に、まだ斑雪がのこっているのを
みて、さすが「越の白山」だと感心したが、一般には「加賀の白山」で通っている。
が、それは徳川時代に言われ始めた事で、ここではどうしても「越前の白山」
でないとおさまりがつかない。越智山から平泉寺に至る泰澄大師の道、三つの峰が
同時に見えること、また濃美と加賀の中間にあって、主神の「大御前」を表徴
している事も、越前を本家と見るべきであろう。
本地十一面観音だ。」という。白山信仰について興味を誘う。
さいわいこの地方には古くから織物の伝統があった。延喜式にも、美濃は「上糸国」
とされており、特に耕地の少ない北部では、曾代系といって、伊勢神宮に納める
上質の糸を作っていた。そういう土地柄だから、一般農家でも織物はさかんだった。
宗広さんはそこへ目をつけたのだが、、、、、、、
今度は製品を売りさばくのに困ってしまった。
私はその人物と作品に興味を持った。織物はまだ充分な形をなしていなかったが、
とかくごまかすことしか知らない商人、というよりごまかす事が技術であり、
美徳であるような工芸の世界に、これだけ一風変わった新鮮な味を持っていた。
近頃の手織りの欠点は地方の特色をなくした事である。有名な産地ほど、
その傾向が強い。
素人っぽさとか、うぶさと言ってもいいが、土地に染み付いた土の香り、
そういうものが彼の織物にはあった。えてして相したものは消えやすい。
その人柄から見て、心配はなさそうだが、将来のことはわからない。
一体どんな所でどんな人が織っているのだろう。半ば好奇心と商売気から、
白鳥村を訪れたのは、その翌年の春のことである。
開拓部落は、聞きしに勝る貧しさで、辛うじて生活しているといった状態、
よくもこんな所に住んでいられると思うような荒涼とした原っぱにすぎない。
その夜は宗広さんのお宅にご厄介になったが、家といっても掘っ立て小屋
見たいなもので、その中に藍瓶を置き、手を真っ黒に染めている姿に、私は
心を打たれた。周りの畠には紅花やかりやすなど、植物染料のたぐいも
育てられている。糸から染めにいたるまで、一貫した作業が行われており、
織るのは村の人たちも手伝った。それにしても無一文の人間が、千人近くの
大世帯を支えているのは大変な重荷であろう。泥まみれの後姿を見て、
私は好奇心からこんな所へきてしまったことを恥ずかしく思った。
、、、、、その間に宗広さんは自力で大きく育っていった。「郡上つむぎ」
といえば、染織界では有名で、伝統工芸の賞も既にいくつか獲得した。
今や彼は一流作家であり、押しも押されぬ一方の旗頭である。だが、その
人柄が変わらぬように、織物も初めのうぶさを失っていない。どちらかといえば
そんな風にのびていくのを見るほどうれしいことはない。開拓村の方も
順調に発展し、国から借りていた土地も、概ね個人の所有に帰しているという。
、、、、、、、、
長良川に沿って、快適なドライブを楽しみつつ北上すると、一番初めにくる
大きな町は関市である。ここの春日神社には、桃山時代の能装束がたくさんあり、
博物館の展覧会などで拝見しているので、ちょっと敬意を表しによってみる。
町と言っても、大通りを外れると閑散とした風景で、神体山を背景にささやかな
神社が建っており、今日は神主さんもご不在で、拝見する事はできないが、
道草好きの私にはかえってそのほうがよかったかもしれない。
能装束といえば、これから行く長滝の白山神社にも、古い面や装束がある。
ことに鎌倉時代の稚児の面はすばらしく、能面の本にも載せさせて頂いたが、
いずれも博覧会で見ただけで、神社を訪ねていないのが、心残りだった。
美術品は、その生まれた場所で見るとまた格別な味わいがある。それにしても、
このような山奥に多くの名品がかくれているのは不思議だが、1つには
白山信仰と関係があり、越前にちかいためもあって、そういうものが街道筋に
散らばったのであろう。今でこそ山間の僻地だが、昔は長良川沿いに特殊な
文化が開けていた。石器時代から縄文、弥生へかけての遺跡もあり、昔の
人々にとって、川と言うものがどれほど大きな役目をはたしたか、また
その川が流れ出る山が崇められたのも、自然の成り行きだった事が分かるのである。
美濃紙で有名な美濃市をすぎる頃から山が迫ってきて水はいよいよ澄んで来る。
空気がいいせいか、この辺の紅葉はひとしくお美しく、名もない雑木が様々の
色に染まりつつ、反射しあっている様は、誠に「錦繍の山」という形容に
ふさわしい。それは能の衣装にも、宗広さんの紬にも共通する日本の色
であり、ニューアンスともいえよう。
白鳥へはやはり国体の余波でいい道が出来、末は越前の大野まで続いている。
私たちは、1時間たらずで長滝の白山神社の境内に立っていた。
昔、この村に美しい白鳥が住んでいた。ある日、1枚の羽を落として飛び去ったが
村の人々はそれを神の化身と信じ、形見の羽を祀ったのが、白鳥の名の起りである
という。羽衣の天人とか、日本武伝説の原型と思われるが、そういうものと
結びつかなかったのは白山比売の化身、もしくは魂と信じられたからに違いない。
後に泰澄大師が白山を開いたときも、その白鳥が現われて案内したと伝えている。
ここに養老の初めの頃、泰澄が開いた長滝寺という名刹があった。一名、美濃馬場
ともいう。白山をめぐって、加賀にも越前にも馬場と名づけるところがあるが、それは
古代の祭り場を現しているとともに、また実際に馬を乗り捨てて、ここからは徒歩で
登る慣わしがあったらしい。白山の登山口として、最初からあった山口の神社に
長滝寺が合体し、山岳信仰の中心をなしていたが、明治の廃仏毀釈によって、寺は
壊滅し、再び当初の姿に戻ったというわけである。、、、、、、
千年の歴史を滅ぼした罪は重い。
だが、さすがに古い社は荒れはてても、どこか静かな落ち着きがあって、昔の面影が
失われたわけではない。千年の樹齢を持つ杉の大木、正和の銘のある見事な石灯篭
お寺の講堂のような拝殿など、何もかも大きく、ゆったりして、かっての壮観を
ほうふつとさせている。特に神さびた本殿は美しい。神社の事だから、何度も
建て替えたにちがいないが、伊勢神宮と全く同じ神明造りで、伊勢より一回りも
大きそうである。
宮司の邸も古い建築で、杉の柾目の総づくりよいうのは珍しい。宮司さんは、
若宮さんといって、現在は29代目で、平安時代に奈良から移ってこられたという。
庭前の紅葉を眺めながら、お茶を頂いたあと、宝物館へ案内してくださる。
まず目に付くのは先に書いた稚児の面で、一応「延命冠者」ということになっているが
、
能面よりずっと古い時代の作で、しっかりした彫刻とうぶな色彩が美しい。、、、、
この神社では毎年1月6日に「花奪祭り」という神事が行われる。
6日祭りとも言われている。拝殿に高くつった花笠を奪い合う行事で、荒っぽい
のは山伏の伝統であろうが、その花をもって帰ると蚕がよく育つという信仰があり、
祭りの時には日本全国から織物関係の人たちが集まってくるという。
それは古代の花祭り、稲の花をかたどって、豊作を祈る行事に養蚕が加わって
行ったのであろう。白山の信仰には、色々なものがくっついてわからなくなって
いるが、初めの神様を菊理比売(くくりひめ)といい、蚕と織物の守り神であった。
いま、東本殿に祀ってある「衣襲明神」がその後身であるが、まさに庇を
貸して母屋を取られた形で、最初は菊理比売だけを奉じていたのが、だんだん
格の高い神に合祀されて行ったのであろう。
が、私が面白いと思うのは、いくらたくさんのものがくっついても、民衆の
信仰は、常に初めの神とともにあるということだ。生活を離れて信仰はない。
この神社を支えたのは、仏教でも神道でもなく、太古さながらの農業の神であり、
特に蚕が中心になっている。6日祭りは千年も続いているというが、それは
誇張ではあるまい。あるいは、それ以前から続いていた祭事であったかもしれない。
そして、その祭りにはくくり姫が現われて舞う事があったろう。あの美しい面は
実は延命冠者でもちごでもなく、そのときつける面ではなかったであろうか。
中尊寺の同型の面が、「若女」と呼ばれること、また、「白山権現」と記して
あるのを思うとき、それは男の面ではなく、白山のご神体であったように
思われる。、、、、
そういえば、6日祭りには、延年の舞が行われるという。延年は、日光の輪王寺
と、平泉の中尊寺にしかない古式の芸能で、ここに来て私は、はじめて
白山神社にも伝わっている事を知った。
--------
平泉寺は勝山市の郊外にある。福井から九頭竜川を東へ遡ると30分余りで
勝山に着く。勝山の南で、九頭竜川に分かれ、支流の女神川にそってしばらく
行くと、話に聞いた参道が見えてくる。入り口の森を「菩提樹林」というが、
実は林ではなく、林のようにうっそうと茂った並木道なのである。左手に
大師山、右に三頭山、そのはるかかなたに白山も望めるはずだが、
今日は霞んでいて見えない。参道の両側は谷で、台地の尾根伝いに登って
行くが、昼なお暗い大木の杉並木は。聞きしに優る見事さで、行けども
行けども寺へは着かぬ。やがて、目の前が明るくなり、ゆるやかな石段が
見えてきて、「平泉白山神社」と記した石標似つきあたった。山門も
鳥居もなく、小さな茶屋が、二軒あるきりの門前は、永平寺とは
打って変わった静けさである。石段を登った左手に平泉さんのお住まいが
ある。平泉家は、桃山時代からつづいた平泉寺の別当で、庭は室町時代
に造られたもので、人手がないために少し荒れているが、10何種類もある
という苔の緑は、目が覚めるように鮮やかである。境内を歩いてみると
平泉寺について、私の知識は皆無であったが、余程大きな寺だったらしく、
方々に礎石や石垣が残っており、杉の林は全山苔でおおわれている。
それも排気ガスと観光客で痛みつけられた京都の寺院とはちがって、
季節としては決していいとはいえないのに、ビロードをしきつめたように
ふっくらと盛り上がり、木洩れ日に光る景色は実に美しい。
平泉家をでて、少し登ったところ、左手に「平泉」の元である霊泉がある。
今でも豊かに水があふれており、そこから流れ出た水は、かたわらの
「御手洗池」に注いでいる。その横に三角型に仕切った石畳があって、真ん中に
一本、そして三つの隅に一本づつ神木の杉が植わっているが、これは
白山の三山(大御前、別山、越南知おなむち)をかたどったものだろう。
後に知ったのだが、なんでも三つに分けるのが、白山信仰の形式らしく
登山口も、美濃馬場の長滝寺、加賀馬場の白山本宮、そして越前の平泉寺
に分かれている。三つの国にまたがり、三つの峰に分かれているのが、自然に
そういう形を生んだのである。「馬場」の名がはじめて史上に現われるのが
平家物語で、そこから先は馬を乗り捨て、徒歩で登るのが決まりであったという。
平泉の霊泉辺りは禁足地であったようで、古い石垣の跡が残り、そこから木立ちの
中を少し登ると、鳥居が見え、その奥に拝殿が望める。山王鳥居というのか、
日吉神社と同じ様に真ん中が山形になっているのは、山岳信仰を現している
のであろう。突き当りの石段を登った所が、本社で、左右に越南知と別山を
祀ってあるが、大きな石垣にそって、右に登っていくと、まるでケルンといった
具合にこわれた石物や石塔がるいるいと積み上げられ、一向一揆の暴力によるのか
廃仏毀釈の破壊によるのか、私はしらないけれど、この寺が経てきた厳しい
歴史を物語っている。その上方に大きな楠公の五輪塔が立っているが、これも
寄せ集めの石らしくやはり同じ時に壊されたのを、復元したものにちがいない。
そのあたりから、白山へ登る山道がついていて、ここまで来るとさすがに
深山らしい気配に満ち、冷え冷えとした空気が身に沁みる。が、苔の緑が
鮮やかなので、暗い感じは1つもなく、すぎの梢をすかして、ずっとしたまで
見通せる景色は気持がいい。
平泉寺に残っているのは、要するにすぎの大木と苔だけで、建物も仏像も
石造美術もない。それがいっそうさっぱりしていた。なんのことはない、
私は苔にひかれてお参りしたわけで、そのときは、それだけで帰ってきた。
、、、、
それから間もなく、私は美濃の長滝寺を訪れた。面を見るのが目的であったが、
そこでも白山信仰と泰澄大師の足跡にふれ、その周辺には、白山神社が
百以上も現存する事を知った。お生みの湖北を訪ねた時には渡岸寺をはじめとする
多くの寺院が泰澄大師の開基を伝え、白山の本地仏である十一面観音を祀っていた。
お膝元の越前は、もちろんのこと、行く先々に白山神社があり、大師の信仰が
今も根強く残っている事に驚くといった具合で、それまで縁もゆかりも
なかったものに、次第に興味を覚えるようになって行った。というより、
興味を持ったために白山とか最澄と言う名前が、耳に止まる様になった。
越前には平安朝に書かれた「泰澄大師伝」が伝わっており、「越の大徳」
とも呼ばれていた。様々な古文書からは泰澄大師は、山岳信仰の創始者で、
神仏習合の元祖であると言っていい。私はこの思想が、日本の全ての文化に
わたる母体とおもっているが、泰澄は役行者ともほぼ同時代の人で、
行基、玄坊も共鳴したとすれば、そういう機運はあらゆる所に
芽生えていたに違いない。よく知られているのは、東大寺建立に際し、
宇佐八幡が勧請されたことで、史上に現われた垂迹思想の嚆矢とされる。
周知の通り、本地垂迹とは、仏がかりに神の姿に現じて、衆生を済度
するという考え方だが、それは仏教の方からいうことで、日本人本来の
心情からすれば、逆に神が仏に乗り移って影向ようごうしたと解すべき
であろう。その方が自然であるし、実際にもそう言う過程を経て発達した。
泰澄でいえば、白山信仰の長い歴史があったから、仏教が無理なく吸収され
神仏は極めて自然に合体する事を得たのである。、、、
越智山も、三十八社(産所八社で泰澄の産所)からはあまり遠くない。
この山は、丹生郡に属し、越前岬の東方にある。近づくにつれて、なだらかな
山容が見えてくるが、「越智」と言う名前からして、古くは越の国の神山
だったのではあるまいか。見かけより深く、嶮しい山で、奥の院は女人結界
の魔所になっていたといい、東に白山、西に日本海を望む風景は、この辺きっての
雄大な眺めである。少年泰澄が籠もったのは、そういう景色の神山であった。
あしたには白山に日の出を拝み、夕べは落日に染まる日本海を眺めたに違いない。
十一面観音が現われたのは、そういう瞬間ではなかったか。その面影を慕って、
白山登頂を思い立った。現代の登山家は山を征服するというが古代の人々は
はるかに敬虔な気持で、自然と一体化するする事を望んでいた。両者に共通
するものは、止むに止まれぬ山への憧憬で、そういう意味で、登山と言うもの
は、極めて官能的なスポーツであり、信仰でもあったと私は思う。
白山は越前平野のどこからでも望めるが、越智山からは真東に当たり、太陽の
信仰ととも関係があったのではなかろうか。三つの峰が、一望のもとに見渡される
のも、越智山の方角からで、あるいは白山の遥拝所の一つだったのかもしれない。
泰澄が晩年を送ったという大谷寺は、麻生津と越智山の中間にあり、街道から
石段を登った所に、ささやかなお堂が建っている。前は蓮池で、この蓮糸で曼荼羅
を織ったという中将姫の伝説も残っている。お堂の脇を入った所に、大師の
墓と伝える九重の石塔があるが、鎌倉頃の作で、キチンと整備されているのは、
信仰がまだ生きている証拠であろう。そこから少し登った平地に、「御本地堂」
があり、本尊はいうまでもなく、白山の本地十一面観音だ。
越智山、大谷寺、泰澄寺、そしてさらに平泉寺へと、泰澄の道はまっすぐ白山
を目指している。泰澄はやはり三上の祝はふりの血を受けた、古代シャーマニズム
の代表者であったのだ。役行者と混同されたり、また役行者をモデルにした架空の
人物といわれるのも理由がないことではないが、実在しもしない人間に、こんな
多くの伝承が残り、信仰が伝わる事がありえようか。
麻生津から平泉寺へ向う途中、九頭竜川の岸に、小舟渡と称する村があり、そこに
「伏拝」と言う場所がある。白山の遥拝所の1つで、清黎な河原を隔てて、山の
全貌がくっきりと見渡せる。丁度川が迂回する地点にあるので、清らかな流れが
小波たてて、白山からこちらに向って流れてくるように見える。泰澄もそれから
後の行者たちも、この神奈備の地で禊をして、山に向って奇岩を込めたのであろう。
、、、、、、
一時は六千坊といわれた修験道の本山で、多くの僧兵を擁した平泉寺も、今は
菩提樹の奥深く、眠るが如く静まっている。四万五千坪もあるという境内は、
深閑としていることに変わりはない。平地は暑かった越前も、ここまで来ると
別天地で、水を含んだ苔は秋よりも美しいく、すぎの木立ちも生き生きして見える。
平泉寺のお庭には、紗羅双樹の花が咲いていた。椿に似て、椿よりぱっちりした
清楚な花で、ほのかな芳香が周囲にただよう。渡しは生まれて初めて見たのだが、
いかにも釈迦の涅槃にふさわしい花である様に思った。
丁度日が落ちる頃で、斜光の中に苔は輝きを増し、やがて長くひいた木立ちの
影に、刻一刻と沈んでいく。白山の雪も、茜色に染まっていることだろう。
先ほど、伏拝から眺めたとき、この夏の最中に、まだ斑雪がのこっているのを
みて、さすが「越の白山」だと感心したが、一般には「加賀の白山」で通っている。
が、それは徳川時代に言われ始めた事で、ここではどうしても「越前の白山」
でないとおさまりがつかない。越智山から平泉寺に至る泰澄大師の道、三つの峰が
同時に見えること、また濃美と加賀の中間にあって、主神の「大御前」を表徴
している事も、越前を本家と見るべきであろう。
白洲正子さんの名著『かくれ里』(講談社学術文庫)。
昭和40年代、2年間にわたって雑誌連載されたものが、昭和46(1971)年に単行本化。
24章からなら随筆は、紀行文の白眉として、多くの人の心に感動を与えました。
単行本の発売から45年を経て、今なお人気は根強く、この本を片手に旅をする人
が後を絶ちません。
白洲正子さんはこの名著の冒頭で、「秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、
ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも「かくれ里」の名にふさわしいような、
ひっそりとした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである。」
と記しています。
最終的には24章にまとめられましたが、その影には、実際に足を運びながら掲載
されなかった"かくれ里"も、かなりの数あったと言われています。
そうやって、白洲正子さんが丹念に歩き、取材した地だけあって、この本に出てくる
かくれ里の地はどこも、半世紀近く経った今も、その美しさを保っています。
私アンドリューも、油日(あぶらひ)、櫟野(いちの)、宇陀(うだ)、河内長野滝の畑、
大和円照寺(えんじょうじ)周辺、越前平泉寺(へいせんじ)、葛城と、この本に登場
する地を尋ねましたが、どこも清冽な空気が流れ、俗世の猥雑さを感じないところばかり。
何より、白洲正子さんの著書で読んだのと同じ、半世紀以上前の光景が今も残っている
ことに感激しました。
そんな中でも、最もその美しさに感動したのが、高野山にほど近い、和歌山県伊都郡
かつらぎ町にある「天野(あまの)」の地。
『かくれ里』の中で白洲正子さんが、「ずい分方々に旅をしたが、こんなに閑(のどか)で、
うっとりするような山村を私は知らない。」と評した、美しい山里です。
紀ノ川沿いから曲がりくねった山道を延々登り、さらに奥深い森に細い道が分け入り、
もうこの先には獣道しかないのではないか? と不安になった次の瞬間に、視界が
パッと開け、神に守られたような、奇跡のように美しい山里が目の前に開けるのです。
まさに、「天国に一番近い場所」と、アンドリューは感動いたしました。
この天野の地にはまた、美しい丹生都比売(にうつひめ)神社があります。
見事な太鼓橋を渡って入る神域は、美しい空気と清い湧き水、そして太陽の木漏れ日
までがありがたく、違って見えます。体の中から浄化されるのを実感することができるでしょう。
重要文化財の四棟の本殿の美しいこと! その屋根の桧皮葺の優美なこと!
丹生都比売神社は、「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつとして、2004年、ユネスコ
の世界文化遺産にも登録されました。また、最近はパワースポットとしても知られる
ようになりましたし、昨年和樂のインスタグラムでは、かわいい「犬みくじ」が大
反響となりました。
発売中の和樂10・11月号では、「今こそ、『かくれ里』の旅に出かけよう」という特集で、
この和歌山県かつらぎ町天野の地と、丹生都比売神社への旅をご紹介しています。
この天野からほど近いところには、今、大河ドラマ「真田丸」で話題となっている
九度山(くどやま)の地もあります。真田昌幸・幸村ゆかりの真田庵などへのガイドも
記事中にあります。
また、弘法大師空海の御母堂がいらした、やはり世界遺産の慈尊院(じそんいん)
もあります。(空海は女人禁制の高野山から月に9回、山を降り、この慈尊院の母に
会いに来たことから九度山という地名がついたと言われているのだとか)
かくれ里の地、天野と丹生都比売神社、そして空海と真田昌幸・幸村親子ゆかりの
九度山の地への旅、和樂を読んで出かけられてはいかがですか?
「かくれ里」特集と、九度山のガイドを掲載した和樂10・11月号の発売期間は
10月31日まで。残り3日! 是非ともこの週末、書店にてご購入いただきますよう、
お願いいたします。84
白洲正子近江山河抄より
滋賀における探訪については「隠れ里」と供に、この山河抄が
詳しく書かれているが、特にここ中の「比良の暮雪」の章には、
志賀周辺の40年前の姿が描かれている。十一面観音についてはほとんど
触れられていないが、現在の状況とあわして、見ると中々に面白い。
この中で、「やはり美術品は、特に信仰の対象となるものは、祀られている場所
で見るに限る。見るのではなく、拝まなくてはいけないだろう。祈らなくてはいけないだろう。
観音寺のような寺に詣でると、私みたいな信仰のないものでも、しぜんそういう気持に
なって来る。、わが立つに杣に冥加あらせ給え。」
のフレーズは十一面観音を拝するときの心としても重要と思う。
1)比良の暮雪から
ある秋の夕方、湖北からの帰り道に、私はそういう風景に接したことがあった。
どんよりした空から、みぞれまじりの雪が降り始めたが、ふと見上げると、薄墨色
の比良山が、茫洋とした姿を現している。雪を通してみるためか、常よりも一層大きく
不気味で、神秘的な感じさえした。なるほど、「比良の暮雪」とは巧い事をいった。
比良の高嶺が本当の姿を見せるのは、こういう瞬間にかぎるのだと、その時
私は合点したように思う。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ(さかりさ)夜更けにけり
比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、その裾に
重なるようにして、比良山が姿を現すと景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、
これは陰の山と呼ぶべきであろう。、、、、
都の西北にそびえる比良山は、黄泉比良坂を意味したのではなかろうか。、、、、
方角からいっても、山陰と近江平野の間に、延々10キロにわたって横たわる
平坂である。古墳が多いのは、ここだけとは限らないが、近江で有数な大塚山
古墳、小野妹子の墓がある和邇から、白鬚神社を経て、高島の向こうまで、大
古墳群が続いている。鵜川には有名な四十八体仏があり、山の上までぎっしり
墓が立っている様は、ある時代には死の山、墓の山、とみなされていたのではないか。
「比良八紘」という諺が出来たのも、畏るべき山と言う観念が行き渡って
いたからだろう。が、古墳が多いということは、一方から言えば、早くから
文化が開けたことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。小野氏が
本拠を置いたのは、古事記によると高穴穂宮の時代には早くもこの地を領していた。
、、、、、
小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。
小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫っていく。
ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は「比良の大和太」
と呼ばれた。小さな川をいくつも越えるが、その源はすべて比良の渓谷に
発し、権現谷、法華谷、金比羅谷など、仏教に因んだ名前が多い。、、、、
かっては「比良3千坊」と呼ばれ、たくさん寺が建っていたはずだが、いまは
痕跡すら止めていない。それに比べて「小女郎」の伝説が未だに人の心を
打つのは、人間の歴史と言うのは不思議なものである。
白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水のなかに
はみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんな
ゆったりした趣きはここにない。が、それははみ出たわけではなく、祭神が
どこか遠くの、海かなたからきたことの記憶に止めているのではあるまいか。
信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も行き続ける。
そして、復活する日が来るのを域を潜めて待つ。と言うことは、
形がすべてだということができるかもしれない。
この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
祭神は猿田彦ということだが、上の方には社殿が3つあって、その背後に
大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まで張ってあるんのは、ここが
白鬚の祖先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように半ば自然に還元
したものと違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、
黄泉の国へ、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして
思い出される。山上には磐座らしいものが見え、明らかに神体山の様相を
呈しているが、それについては何一つ分かっていない。古い神社である
のに、式内社でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦命
は、比良明神の化身とも言われるが、神様同士で交じり合うので、信用は
おけない。
白鬚神社を過ぎると、比良山は湖水すれすれの所までせり出し、打下
(うちおろし)という浜にでる。打下は、「比良の嶺おろし」から起こった
名称で、神への畏れもあってか、漁師はこの辺を避けて通るという。
そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に
花を添えていた。入り口には、例によって古墳の石室があり、苔むした
山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言う
よりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが
野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。この
石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の
菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに
なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは良く見る風景だが、
ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージと重なって、
いよいよ黄泉への道のように見えてくる。
2)日枝の山道より
日枝の神体山がある。
この山は、八王子山、牛尾山、または、小比叡の山とも呼ばれる。
神社に向かってやや右手の方向にそびえているが、大比叡のひだに隠れて
三上山ほろ歴然としていない。が、神体山に特有な美しい姿をしており、
頂山に奥宮が建っているのが、遠くからも望める。そこには、大きな磐座
があって、その磐を挟んで2つの社が建っているが、これは、後に造られた者で
大和の三輪と同じ様に、初めは、山とその磐がとが信仰の対象であった。
、、、、、古事記によると大山昨神を祀り、奥の磐座は玉依比売(たまより
ひめ)の御陵であるとも言う。周囲に古墳が多いのもみても、先史時代からの祖先の
奥津城(おくつき)であったことが分かる。
、、、、、
ふつうは二の鳥居からまっすぐ登って、西本宮へお参りするのが道順だが、
先生はまず東本宮に連れて行ってくださった。この神社は、小比叡の麓にあり、
したがって少し横道に逸れるが、日吉大社の元は実はこちらのほうにあるので、
西本宮は天智天皇が近江に遷都したとき、大津の京の鎮護のために、大和の
三輪神社を勧請されたと聞く。美和の祭神は、大物主で、日吉における神格
はそののち大山昨より遥かに上になったから、いわば、庇を貸して母屋を取られる
結果となった。
ささなみの国つみ神のうらさびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
(万葉集)
大津の京が滅びたというのは、近江の国つ神に見放されたというのだが、
それが当時の人々の本当の気持だったにちがいない。、、、、
本殿に向かって左側に「樹下社」という摂社があるが、先生によると、これが
日吉信仰の原点で、玉依比売(たまよりひめ)を祀ってある。この社は、
本殿に直角ではなく、ほんの少し右へ振っているとのことだ。その背後には、
小比嬰の山がそびえており、神体山の稜線にそうためには、社殿の位置を
少しずらさねばならない。他の摂社、末社は整然と並んでいるのに、これは、
いかにも不自然に見えるが、そんな無理をしてまでもとの形を残そうとしている
のは面白い。、、、、、、、
-------
社殿の下には「亀井」と名づける神泉があって、そこから流れ出る水が廻り
廻って大宮川に合し、末は田畑をうるをして行く様は、さながら古代信仰
の絵文様を見る想いがする。神社には山王曼荼羅とか春日曼荼羅と言って、地図
のような絵が沢山残っているが、なぜあんなものが信仰の対象となり得るのか、
私には不可解であった。が、今は幾分分かったような気がする。日本人にとって
自然の風景と言うものは思想をただし、精神を整える偉大な師匠であった。
そして、その中心となる神山、生活に最も必要木と水とを生む山が女体に
たとえられたのは当然であろう。玉依比売という名称は日枝に限るわけではないが
おそらくヒミコのようなシャーマンで、ヒミコがヒエヒメと呼ばれたのではないか
ヒエの語源は分からないけど、古事記には「日枝」と書き、比叡に転じて
行ったらしい。
--------
神社ができるのはそれ以後のことだが、景山説によると、山上の「奥宮」、山下の
「里宮」、平地の「田宮」と、三段階に分かれるのが、古代信仰の形式である。
それはたとえば、宗像神社の「奥津島」「中津島」「辺津宮」に相当するもので、
陸地の場合は、島ほど区別がはっきりせず、日枝の奥宮はもっと上のほうにあったと
も考えられる。境内のなかをあるいてみると、摂社、末社だけではなく、いたるところ
に磐座や神木が祀られていることに気がつく。それをそのまま日吉大社が経てきた
歴史であり、日枝にいます神の分身でもある。
いわゆる比叡山は、小比叡に対して大比叡とも呼ばれているが、どちらが先に神山
とみなされたか、今は知るよしもない。が、三上山や三輪山の例を見ても
分かるように、まず里に近いこと、紡錘形の美しい姿をしていること、川がそばに
あって「神奈備」野条件を備えていることが、神体山の特徴といってよい。
してみると、小比叡のほうが相応しいということになるが、常識から言っても当時
の大比叡は、原始林におおわれた深山で、巫女がこもることなぞ思いも寄らなかった
に違いない。
その男性的な山容を意識し始めるのは大山神を勧請した頃のことではなかろうか。
そんな事を想像しながら、眺めていると優しい姿の小比叡の山を抱くようなかっこうで
立つ大比叡は、似合いの夫婦のように見えてくる。
--------
日吉大社の大祭は、四月半ばに行われる。それより以前、「如月、中の申の日」に、
2基の御輿を神体山へ担ぎ上げる。御輿は山上の奥宮に安置されたまま一月半を
すごすが、灯明を上げるのはその間のことである。、、、、、、
そして「卯月、中の午の日」の夜、いよいよ御輿が山下へ降りる。これを
「御生祭り(みおれ)」
ともいい、新しい山霊、もしくは稲魂が、生まれるための準備行動である。、、、、
かくして荒御魂(あらみたま)は和御魂(にぎみたま)に生まれ変わる。
その時ささげる神饌を「未の御供」といい、様々な御供えに混じって、若宮のために
人形や造花、文房具の類まで見出されるのは面白い。日本の祭りは象徴的な
ように見えても、実は大変具体的なのである。そうして新しい魂を得た神霊は、
再び、山へ戻って行くが、引き伸ばして考えれば、大嘗祭にまで共通する
農耕民族の祭典で、度々述べたように、それは、一種の若返りの思想ともいえる。
祭りと供に、日吉大社で有名なのは、石垣が美しいことである。、、、、、、、
穴太の山中には景行天皇から3代にわたる皇居の跡があり、現在は「高穴穂神社」
と呼ばれるが、その辺から滋賀の里へかけて一大古墳群が続いている。、、、、、
近江には佐々木貴の山君という陵墓造りの専門かもいたし、石仏や石塔が多いことも
前に述べた。それは後世の石庭にまで、一筋につながる伝統で、太古の磐座から
現代の石造彫刻に至るまで、日本の石はその都度姿を変えて生きながらえてきた。
その功績の大部分は、近江にあるといっても、過言ではない。
----------
私が入り立つ杣山。私が住む杣山。
出典新古今集 釈教
「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の仏たちわがたつそまに
冥加(みやうが)あらせたまへ」
[訳] 全知全能の御仏たちよ。私が入り立つこの杣山に仏の加護をお与えください。
②比叡(ひえい)山の別名。◇①の用例にあげた、伝教大師最澄(さいちよう)
が比叡山根本中堂を建立したときに作った和歌から。
やはり美術品は、特に信仰の対象となるものは、祀られている場所で見るに限る。
見るのではなく、拝まなくてはいけないだろう。祈らなくてはいけないだろう。
観音寺のような寺に詣でると、私みたいな信仰のないものでも、しぜんそういう気持に
なって来る。、わが立つに杣に冥加あらせ給え。
観音寺から私たちは、湖水のほとりへ出た。長浜の北に、早崎という竹生島の遥拝所
があり、そこから入日を見るといいと勧められたからである。が、秋の日の習いとて、
行き着かぬうちに暮れかかった。で、長浜城跡から拝んだが、あんな落日は
見たことがない。再び見ることもないだろう。
向かい側は比良山のあたりであろうか、秋にしては暖かすぎる夕暮れで、湖水から
立ち上る水蒸気に、山も空も水も一つになり、全く輝きのない太陽が、鈍色の雲の
中へ沈んでいく。沈んだ後には、紫と桃色の横雲がたなびき、油を流したような
水面に影を映している。わずかに水面と分かるのは、水鳥の群れが浮いていたからで、
美しいとか素晴らしいというにはあまりにも静かな、淀んだような夕焼けであった。
何時間そこに立ち尽くしていたか、もしかすると数秒だったかもしれない。
こう書いてしまうとなんの変哲もないが、実はその前日、私は京都の博物館で、
平家納経を見ていた。その中に、今日の落日と寸分たがわぬ景色があった。
銀箔がさびて、微妙な光彩を放つ中に、大きな太陽が浮かんでいる。紫と桃色の
雲が経巻の上下にただよい、小鳥の群れがその中を飛んでいく。風もなく、
音もない。
-------
恵心僧都が感得したのは、横川であるとも、居室谷の安楽律院とも、坂本の
聖衆来迎寺だったとも、伝えられている。が、ひとたび、感得すれば、二度と
消えうせる映像ではないから、どこと定めるにも及ぶまい。それより彼が
横川から飯室谷、更に平地の来迎寺へと、だんだん下がってきたことの方に
私は興味を持つ。sッそれは、日枝の神霊が、奥宮、里宮、田宮と順々に
降りてくるのに似なくもない。浄土の思想を広めるために、必要上そうなった
ともいえるが、最澄が日枝の山霊に救いを求めたように、源信の中にも、
古代の神が辿った道が根強く生きていたに違いない。横川は、比叡山三塔
の1つで、比叡連邦の北の外れにある。最澄の弟子の円仁が開いた寺で、
「根本杉」と呼ばれる大木の根元に草庵の跡が残っている。
その近くに、「如法水」という泉が懇々と湧き出ている。
指摘するまでもないがここにも、古代信仰の木と石と水が仏教の木と水が仏教の
遺跡と化して伝わっているのを見る。、、、、、、
ほとんど新しいモノばかりだが、杉並木の参道を行くとそぞろに昔の面影が
偲ばれる。円仁の死後は、天台密教の中心となり、次第に発展して行ったが、
中でも、慈恵大師は、叡山中興の祖と仰がれ、民衆の間に信仰を広めることに
努めた。、、、、、、、
恵心僧都の墓所は、そこから反対側の南の谷間にある。ここも、決して気持の
いい場所とはいえないが、老杉の木の間を通して、琵琶湖が望まれ、三上山が
秀麗な姿を見せている。こちらが暗いだけ、向こう側は目覚めるような景色で、
三上山に月が昇るときは、さぞ、美しいことと想像される。
そこから飯室谷へ一気に下る急坂がある。「元三大師みち」という石票があり、
2キロあるというが、瞬く間に滑り落ちてしまう。うっそうと茂った木立の中に
不動堂と慈忍和尚の廟がたち、私が行った時には、真っ赤な落椿が、苔生した石垣を
染めていた。恵心僧都が隠棲した安楽律院は、飯室谷のつづきの安楽谷にあり、
谷から山へかけて、石畳の参道が続いている。琵琶湖も三上山も、横川と同じ位置に
眺められ、僧都が常に湖水の自然とともに生活していたことが分かる。
飯室谷へは坂本の西教寺からも仰木も車でいけるが、少々苦しくても、横川から
下ってみないことには半分の価値もない。感無量寿経も法華経も、私の理解を
超えるが、近江の自然は、理屈ぬきで、浄土への世界へ誘ってくれる。
聖衆来迎寺は、そこから更に下った下坂本の田圃の中にある。、、、
寺伝によると伝教大師の草創で、恵心僧都がここで弥陀来迎を感得し、今の名前に
あらためたという。建築や宝物に見るべきものは多いが、中でも有名なのは、
「往生要集」に測った「10界図」で、、、、その図をかけて「絵解き」を
行う。
来迎寺から坂本にかけては、浄土信仰がくまなく行き渡っており、再教寺もその
1つである。密教寺院のおごさかなのに比べて、心休まるものがあり、この寺にも
明るい空気が流れている。
西教寺は一時荒廃していたのを、室町時代の真盛上人が再興し、現在は「天台
真盛宗」と呼ばれている。いつ行っても本堂の中から、念仏の声が聞こえてくるが、
これを「不断念仏」と称し、近所の信者たちによってつづけられているという。
本堂の正面には、1万日ごとに建てた石碑が残っており、最近17万日の碑が
建った。1万日といえば27,8年になり、17万でちょうど室町時代に遡る。
それらの碑は真盛上人の回向のために建てられたものであり、実際には平安時代
から続いていたのであろう。驚くべき信仰の強さで、比叡山の奥深さを物語っている。
ここで人の心をひくのは、石垣の上に並ぶ石仏群である。銘文によると、天正
12年、栗太郡のなにがしが自分の娘の菩提を弔うために建てたものとかで、、、、、。
最澄の創建による比叡山寺は、ささやかであったが、三千世界の中心をそこにおこうと
する、遠大な理想を秘めていた。それだけ、教義は複雑を極め、顕密二教を元と
して、禅宗から浄土宗に至るあらゆる萌芽を含んでいた。その中から、法然、道元、
日蓮、親鸞など数え切れない名僧を輩出したが、「伝教大師」という称号は、
いかにも、そういう始祖にふさわしい。伝教大師、弘法大師と並び称されるが、
2人の性格は正反対であったように思う。
詳しく書かれているが、特にここ中の「比良の暮雪」の章には、
志賀周辺の40年前の姿が描かれている。十一面観音についてはほとんど
触れられていないが、現在の状況とあわして、見ると中々に面白い。
この中で、「やはり美術品は、特に信仰の対象となるものは、祀られている場所
で見るに限る。見るのではなく、拝まなくてはいけないだろう。祈らなくてはいけないだろう。
観音寺のような寺に詣でると、私みたいな信仰のないものでも、しぜんそういう気持に
なって来る。、わが立つに杣に冥加あらせ給え。」
のフレーズは十一面観音を拝するときの心としても重要と思う。
1)比良の暮雪から
ある秋の夕方、湖北からの帰り道に、私はそういう風景に接したことがあった。
どんよりした空から、みぞれまじりの雪が降り始めたが、ふと見上げると、薄墨色
の比良山が、茫洋とした姿を現している。雪を通してみるためか、常よりも一層大きく
不気味で、神秘的な感じさえした。なるほど、「比良の暮雪」とは巧い事をいった。
比良の高嶺が本当の姿を見せるのは、こういう瞬間にかぎるのだと、その時
私は合点したように思う。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ(さかりさ)夜更けにけり
比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、その裾に
重なるようにして、比良山が姿を現すと景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、
これは陰の山と呼ぶべきであろう。、、、、
都の西北にそびえる比良山は、黄泉比良坂を意味したのではなかろうか。、、、、
方角からいっても、山陰と近江平野の間に、延々10キロにわたって横たわる
平坂である。古墳が多いのは、ここだけとは限らないが、近江で有数な大塚山
古墳、小野妹子の墓がある和邇から、白鬚神社を経て、高島の向こうまで、大
古墳群が続いている。鵜川には有名な四十八体仏があり、山の上までぎっしり
墓が立っている様は、ある時代には死の山、墓の山、とみなされていたのではないか。
「比良八紘」という諺が出来たのも、畏るべき山と言う観念が行き渡って
いたからだろう。が、古墳が多いということは、一方から言えば、早くから
文化が開けたことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。小野氏が
本拠を置いたのは、古事記によると高穴穂宮の時代には早くもこの地を領していた。
、、、、、
小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。
小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫っていく。
ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は「比良の大和太」
と呼ばれた。小さな川をいくつも越えるが、その源はすべて比良の渓谷に
発し、権現谷、法華谷、金比羅谷など、仏教に因んだ名前が多い。、、、、
かっては「比良3千坊」と呼ばれ、たくさん寺が建っていたはずだが、いまは
痕跡すら止めていない。それに比べて「小女郎」の伝説が未だに人の心を
打つのは、人間の歴史と言うのは不思議なものである。
白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水のなかに
はみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんな
ゆったりした趣きはここにない。が、それははみ出たわけではなく、祭神が
どこか遠くの、海かなたからきたことの記憶に止めているのではあるまいか。
信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も行き続ける。
そして、復活する日が来るのを域を潜めて待つ。と言うことは、
形がすべてだということができるかもしれない。
この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
祭神は猿田彦ということだが、上の方には社殿が3つあって、その背後に
大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まで張ってあるんのは、ここが
白鬚の祖先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように半ば自然に還元
したものと違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、
黄泉の国へ、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして
思い出される。山上には磐座らしいものが見え、明らかに神体山の様相を
呈しているが、それについては何一つ分かっていない。古い神社である
のに、式内社でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦命
は、比良明神の化身とも言われるが、神様同士で交じり合うので、信用は
おけない。
白鬚神社を過ぎると、比良山は湖水すれすれの所までせり出し、打下
(うちおろし)という浜にでる。打下は、「比良の嶺おろし」から起こった
名称で、神への畏れもあってか、漁師はこの辺を避けて通るという。
そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に
花を添えていた。入り口には、例によって古墳の石室があり、苔むした
山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言う
よりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが
野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。この
石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の
菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに
なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは良く見る風景だが、
ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージと重なって、
いよいよ黄泉への道のように見えてくる。
2)日枝の山道より
日枝の神体山がある。
この山は、八王子山、牛尾山、または、小比叡の山とも呼ばれる。
神社に向かってやや右手の方向にそびえているが、大比叡のひだに隠れて
三上山ほろ歴然としていない。が、神体山に特有な美しい姿をしており、
頂山に奥宮が建っているのが、遠くからも望める。そこには、大きな磐座
があって、その磐を挟んで2つの社が建っているが、これは、後に造られた者で
大和の三輪と同じ様に、初めは、山とその磐がとが信仰の対象であった。
、、、、、古事記によると大山昨神を祀り、奥の磐座は玉依比売(たまより
ひめ)の御陵であるとも言う。周囲に古墳が多いのもみても、先史時代からの祖先の
奥津城(おくつき)であったことが分かる。
、、、、、
ふつうは二の鳥居からまっすぐ登って、西本宮へお参りするのが道順だが、
先生はまず東本宮に連れて行ってくださった。この神社は、小比叡の麓にあり、
したがって少し横道に逸れるが、日吉大社の元は実はこちらのほうにあるので、
西本宮は天智天皇が近江に遷都したとき、大津の京の鎮護のために、大和の
三輪神社を勧請されたと聞く。美和の祭神は、大物主で、日吉における神格
はそののち大山昨より遥かに上になったから、いわば、庇を貸して母屋を取られる
結果となった。
ささなみの国つみ神のうらさびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
(万葉集)
大津の京が滅びたというのは、近江の国つ神に見放されたというのだが、
それが当時の人々の本当の気持だったにちがいない。、、、、
本殿に向かって左側に「樹下社」という摂社があるが、先生によると、これが
日吉信仰の原点で、玉依比売(たまよりひめ)を祀ってある。この社は、
本殿に直角ではなく、ほんの少し右へ振っているとのことだ。その背後には、
小比嬰の山がそびえており、神体山の稜線にそうためには、社殿の位置を
少しずらさねばならない。他の摂社、末社は整然と並んでいるのに、これは、
いかにも不自然に見えるが、そんな無理をしてまでもとの形を残そうとしている
のは面白い。、、、、、、、
-------
社殿の下には「亀井」と名づける神泉があって、そこから流れ出る水が廻り
廻って大宮川に合し、末は田畑をうるをして行く様は、さながら古代信仰
の絵文様を見る想いがする。神社には山王曼荼羅とか春日曼荼羅と言って、地図
のような絵が沢山残っているが、なぜあんなものが信仰の対象となり得るのか、
私には不可解であった。が、今は幾分分かったような気がする。日本人にとって
自然の風景と言うものは思想をただし、精神を整える偉大な師匠であった。
そして、その中心となる神山、生活に最も必要木と水とを生む山が女体に
たとえられたのは当然であろう。玉依比売という名称は日枝に限るわけではないが
おそらくヒミコのようなシャーマンで、ヒミコがヒエヒメと呼ばれたのではないか
ヒエの語源は分からないけど、古事記には「日枝」と書き、比叡に転じて
行ったらしい。
--------
神社ができるのはそれ以後のことだが、景山説によると、山上の「奥宮」、山下の
「里宮」、平地の「田宮」と、三段階に分かれるのが、古代信仰の形式である。
それはたとえば、宗像神社の「奥津島」「中津島」「辺津宮」に相当するもので、
陸地の場合は、島ほど区別がはっきりせず、日枝の奥宮はもっと上のほうにあったと
も考えられる。境内のなかをあるいてみると、摂社、末社だけではなく、いたるところ
に磐座や神木が祀られていることに気がつく。それをそのまま日吉大社が経てきた
歴史であり、日枝にいます神の分身でもある。
いわゆる比叡山は、小比叡に対して大比叡とも呼ばれているが、どちらが先に神山
とみなされたか、今は知るよしもない。が、三上山や三輪山の例を見ても
分かるように、まず里に近いこと、紡錘形の美しい姿をしていること、川がそばに
あって「神奈備」野条件を備えていることが、神体山の特徴といってよい。
してみると、小比叡のほうが相応しいということになるが、常識から言っても当時
の大比叡は、原始林におおわれた深山で、巫女がこもることなぞ思いも寄らなかった
に違いない。
その男性的な山容を意識し始めるのは大山神を勧請した頃のことではなかろうか。
そんな事を想像しながら、眺めていると優しい姿の小比叡の山を抱くようなかっこうで
立つ大比叡は、似合いの夫婦のように見えてくる。
--------
日吉大社の大祭は、四月半ばに行われる。それより以前、「如月、中の申の日」に、
2基の御輿を神体山へ担ぎ上げる。御輿は山上の奥宮に安置されたまま一月半を
すごすが、灯明を上げるのはその間のことである。、、、、、、
そして「卯月、中の午の日」の夜、いよいよ御輿が山下へ降りる。これを
「御生祭り(みおれ)」
ともいい、新しい山霊、もしくは稲魂が、生まれるための準備行動である。、、、、
かくして荒御魂(あらみたま)は和御魂(にぎみたま)に生まれ変わる。
その時ささげる神饌を「未の御供」といい、様々な御供えに混じって、若宮のために
人形や造花、文房具の類まで見出されるのは面白い。日本の祭りは象徴的な
ように見えても、実は大変具体的なのである。そうして新しい魂を得た神霊は、
再び、山へ戻って行くが、引き伸ばして考えれば、大嘗祭にまで共通する
農耕民族の祭典で、度々述べたように、それは、一種の若返りの思想ともいえる。
祭りと供に、日吉大社で有名なのは、石垣が美しいことである。、、、、、、、
穴太の山中には景行天皇から3代にわたる皇居の跡があり、現在は「高穴穂神社」
と呼ばれるが、その辺から滋賀の里へかけて一大古墳群が続いている。、、、、、
近江には佐々木貴の山君という陵墓造りの専門かもいたし、石仏や石塔が多いことも
前に述べた。それは後世の石庭にまで、一筋につながる伝統で、太古の磐座から
現代の石造彫刻に至るまで、日本の石はその都度姿を変えて生きながらえてきた。
その功績の大部分は、近江にあるといっても、過言ではない。
----------
私が入り立つ杣山。私が住む杣山。
出典新古今集 釈教
「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の仏たちわがたつそまに
冥加(みやうが)あらせたまへ」
[訳] 全知全能の御仏たちよ。私が入り立つこの杣山に仏の加護をお与えください。
②比叡(ひえい)山の別名。◇①の用例にあげた、伝教大師最澄(さいちよう)
が比叡山根本中堂を建立したときに作った和歌から。
やはり美術品は、特に信仰の対象となるものは、祀られている場所で見るに限る。
見るのではなく、拝まなくてはいけないだろう。祈らなくてはいけないだろう。
観音寺のような寺に詣でると、私みたいな信仰のないものでも、しぜんそういう気持に
なって来る。、わが立つに杣に冥加あらせ給え。
観音寺から私たちは、湖水のほとりへ出た。長浜の北に、早崎という竹生島の遥拝所
があり、そこから入日を見るといいと勧められたからである。が、秋の日の習いとて、
行き着かぬうちに暮れかかった。で、長浜城跡から拝んだが、あんな落日は
見たことがない。再び見ることもないだろう。
向かい側は比良山のあたりであろうか、秋にしては暖かすぎる夕暮れで、湖水から
立ち上る水蒸気に、山も空も水も一つになり、全く輝きのない太陽が、鈍色の雲の
中へ沈んでいく。沈んだ後には、紫と桃色の横雲がたなびき、油を流したような
水面に影を映している。わずかに水面と分かるのは、水鳥の群れが浮いていたからで、
美しいとか素晴らしいというにはあまりにも静かな、淀んだような夕焼けであった。
何時間そこに立ち尽くしていたか、もしかすると数秒だったかもしれない。
こう書いてしまうとなんの変哲もないが、実はその前日、私は京都の博物館で、
平家納経を見ていた。その中に、今日の落日と寸分たがわぬ景色があった。
銀箔がさびて、微妙な光彩を放つ中に、大きな太陽が浮かんでいる。紫と桃色の
雲が経巻の上下にただよい、小鳥の群れがその中を飛んでいく。風もなく、
音もない。
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恵心僧都が感得したのは、横川であるとも、居室谷の安楽律院とも、坂本の
聖衆来迎寺だったとも、伝えられている。が、ひとたび、感得すれば、二度と
消えうせる映像ではないから、どこと定めるにも及ぶまい。それより彼が
横川から飯室谷、更に平地の来迎寺へと、だんだん下がってきたことの方に
私は興味を持つ。sッそれは、日枝の神霊が、奥宮、里宮、田宮と順々に
降りてくるのに似なくもない。浄土の思想を広めるために、必要上そうなった
ともいえるが、最澄が日枝の山霊に救いを求めたように、源信の中にも、
古代の神が辿った道が根強く生きていたに違いない。横川は、比叡山三塔
の1つで、比叡連邦の北の外れにある。最澄の弟子の円仁が開いた寺で、
「根本杉」と呼ばれる大木の根元に草庵の跡が残っている。
その近くに、「如法水」という泉が懇々と湧き出ている。
指摘するまでもないがここにも、古代信仰の木と石と水が仏教の木と水が仏教の
遺跡と化して伝わっているのを見る。、、、、、、
ほとんど新しいモノばかりだが、杉並木の参道を行くとそぞろに昔の面影が
偲ばれる。円仁の死後は、天台密教の中心となり、次第に発展して行ったが、
中でも、慈恵大師は、叡山中興の祖と仰がれ、民衆の間に信仰を広めることに
努めた。、、、、、、、
恵心僧都の墓所は、そこから反対側の南の谷間にある。ここも、決して気持の
いい場所とはいえないが、老杉の木の間を通して、琵琶湖が望まれ、三上山が
秀麗な姿を見せている。こちらが暗いだけ、向こう側は目覚めるような景色で、
三上山に月が昇るときは、さぞ、美しいことと想像される。
そこから飯室谷へ一気に下る急坂がある。「元三大師みち」という石票があり、
2キロあるというが、瞬く間に滑り落ちてしまう。うっそうと茂った木立の中に
不動堂と慈忍和尚の廟がたち、私が行った時には、真っ赤な落椿が、苔生した石垣を
染めていた。恵心僧都が隠棲した安楽律院は、飯室谷のつづきの安楽谷にあり、
谷から山へかけて、石畳の参道が続いている。琵琶湖も三上山も、横川と同じ位置に
眺められ、僧都が常に湖水の自然とともに生活していたことが分かる。
飯室谷へは坂本の西教寺からも仰木も車でいけるが、少々苦しくても、横川から
下ってみないことには半分の価値もない。感無量寿経も法華経も、私の理解を
超えるが、近江の自然は、理屈ぬきで、浄土への世界へ誘ってくれる。
聖衆来迎寺は、そこから更に下った下坂本の田圃の中にある。、、、
寺伝によると伝教大師の草創で、恵心僧都がここで弥陀来迎を感得し、今の名前に
あらためたという。建築や宝物に見るべきものは多いが、中でも有名なのは、
「往生要集」に測った「10界図」で、、、、その図をかけて「絵解き」を
行う。
来迎寺から坂本にかけては、浄土信仰がくまなく行き渡っており、再教寺もその
1つである。密教寺院のおごさかなのに比べて、心休まるものがあり、この寺にも
明るい空気が流れている。
西教寺は一時荒廃していたのを、室町時代の真盛上人が再興し、現在は「天台
真盛宗」と呼ばれている。いつ行っても本堂の中から、念仏の声が聞こえてくるが、
これを「不断念仏」と称し、近所の信者たちによってつづけられているという。
本堂の正面には、1万日ごとに建てた石碑が残っており、最近17万日の碑が
建った。1万日といえば27,8年になり、17万でちょうど室町時代に遡る。
それらの碑は真盛上人の回向のために建てられたものであり、実際には平安時代
から続いていたのであろう。驚くべき信仰の強さで、比叡山の奥深さを物語っている。
ここで人の心をひくのは、石垣の上に並ぶ石仏群である。銘文によると、天正
12年、栗太郡のなにがしが自分の娘の菩提を弔うために建てたものとかで、、、、、。
最澄の創建による比叡山寺は、ささやかであったが、三千世界の中心をそこにおこうと
する、遠大な理想を秘めていた。それだけ、教義は複雑を極め、顕密二教を元と
して、禅宗から浄土宗に至るあらゆる萌芽を含んでいた。その中から、法然、道元、
日蓮、親鸞など数え切れない名僧を輩出したが、「伝教大師」という称号は、
いかにも、そういう始祖にふさわしい。伝教大師、弘法大師と並び称されるが、
2人の性格は正反対であったように思う。
十一面観音巡礼、白洲正子
白洲正子は「十一面観音巡礼」で様々な地域にある十一面観音について
訪問した時の印象を中心に描いているが、その一端をここに記す。
若狭に十一面観音が多いことも、水の信仰と無関係ではあるまい。
複雑な海岸線に取り囲まれ、海の幸、山の幸に恵まれたこのうるわしい
背面そともの国は、まことに観音様にはふさわしい霊地と言える。
中でも羽賀寺の十一面観音は、優れた彫刻で、それやこれやで取材に
行くのが楽しみであった。、、、中でも桃山時代に書かれた「羽賀寺
縁起」はみごとなもので、巻末に後陽成院のしんかんがついている。
それによるとこの寺は元正天皇の霊亀2年(716)、行基の草創で
天暦元年(947)の地震で山が崩れ、つづく暴風に、堂塔ことごとく
地下に埋没した。村上天皇の勅願により、寺は程なく再興されたが、
その後も度々火災にみまわれ、後花園天皇、後陽成天皇などによって
修復された。、、、、やがて、本堂にたどり着いた。
室町時代ののびのびとした建築である。とびらがきしみ、お厨司が開いて、
すらりとした十一面観音が、ろうそくの火影のもとに浮かび上がった。
思ったより華奢なお姿で、彩色が鮮やかに残っている。大きな眼と、
気品の高い唇、細く伸びた指の美しさは、元正天皇の御影とされたのも、
さもあらんと思われる。ワカサの名から連想するわけではないが、こんなに
若々しい観音様を私は見たことがない。時代は平安初期、檜の一本造りで、
このような仏像が、都を遠くはなれた僻地に残っているのは奇蹟としか
思えない。それは当時の文化の高さを物語るとともに、天平時代に若狭
が占めていた位置を、無言の中に語るようであった。
お堂を出る頃は、月が中天にかかっていた。山の上から眺める雪景色
は、夢のように美しく、私は寒さも忘れてしばし佇んでいた。山が入り組んで
いるため、ここからは見えないが、北川をへだてて、南には多田ヶ岳が
聳えているはずで、遠敷川はその山裾を流れている。西側の谷には、
多田寺と言う古刹があり、ここにも十一面観音が祀ってある。北川を
はさんで、羽賀寺、多田寺、国分寺、若狭姫、若狭彦とその神宮寺、
根来八幡などが、殆ど一線上に並んでいるのは、多田ヶ岳を源流とする
水の信仰と切り離して考えるわけにはいかない。
私にとって、十一面観音は、昔からもっとも魅力ある存在であったが、
怖ろしくて、近づけない気がしていたからである。巡礼ならどんな無智
なものにでも出来る。手ぶらで歩けるということは、私の気持をほぐし、
その上好きな観音様にお目にかかれると言うことが、楽しみになった。
が、はじめてみると、中々そうは行かない。回を重ねるにしたがい、
初めの予感が当たっていたことを、思い知らされる始末となった。私は
薄氷を踏む思いで、巡礼を続けたが、変幻自在な観世音に幻惑され、
結果として、知れば知るほど、理解を拒絶するものであることをさとる
だけであった。
私の巡礼は、最後に聖林寺へ戻るところで終わっているが、再び拝む天平の
十一面観音は、はるかに遠く高いところから、「それみたことか」というように
見えた。私はそういうものが観音の慈悲だと信じた。もともと理解しようと
したのが間違いだったのである。もろもろの十一面観音が放つ、めくるめく
ような多彩な光は、一つの白光の還元し、私の肉体を貫く。そして、私は思う。
見れば目が潰れると信じた昔の人々のほうが、はるかに観音の身近に
参じていたのだと。
訪問した時の印象を中心に描いているが、その一端をここに記す。
若狭に十一面観音が多いことも、水の信仰と無関係ではあるまい。
複雑な海岸線に取り囲まれ、海の幸、山の幸に恵まれたこのうるわしい
背面そともの国は、まことに観音様にはふさわしい霊地と言える。
中でも羽賀寺の十一面観音は、優れた彫刻で、それやこれやで取材に
行くのが楽しみであった。、、、中でも桃山時代に書かれた「羽賀寺
縁起」はみごとなもので、巻末に後陽成院のしんかんがついている。
それによるとこの寺は元正天皇の霊亀2年(716)、行基の草創で
天暦元年(947)の地震で山が崩れ、つづく暴風に、堂塔ことごとく
地下に埋没した。村上天皇の勅願により、寺は程なく再興されたが、
その後も度々火災にみまわれ、後花園天皇、後陽成天皇などによって
修復された。、、、、やがて、本堂にたどり着いた。
室町時代ののびのびとした建築である。とびらがきしみ、お厨司が開いて、
すらりとした十一面観音が、ろうそくの火影のもとに浮かび上がった。
思ったより華奢なお姿で、彩色が鮮やかに残っている。大きな眼と、
気品の高い唇、細く伸びた指の美しさは、元正天皇の御影とされたのも、
さもあらんと思われる。ワカサの名から連想するわけではないが、こんなに
若々しい観音様を私は見たことがない。時代は平安初期、檜の一本造りで、
このような仏像が、都を遠くはなれた僻地に残っているのは奇蹟としか
思えない。それは当時の文化の高さを物語るとともに、天平時代に若狭
が占めていた位置を、無言の中に語るようであった。
お堂を出る頃は、月が中天にかかっていた。山の上から眺める雪景色
は、夢のように美しく、私は寒さも忘れてしばし佇んでいた。山が入り組んで
いるため、ここからは見えないが、北川をへだてて、南には多田ヶ岳が
聳えているはずで、遠敷川はその山裾を流れている。西側の谷には、
多田寺と言う古刹があり、ここにも十一面観音が祀ってある。北川を
はさんで、羽賀寺、多田寺、国分寺、若狭姫、若狭彦とその神宮寺、
根来八幡などが、殆ど一線上に並んでいるのは、多田ヶ岳を源流とする
水の信仰と切り離して考えるわけにはいかない。
私にとって、十一面観音は、昔からもっとも魅力ある存在であったが、
怖ろしくて、近づけない気がしていたからである。巡礼ならどんな無智
なものにでも出来る。手ぶらで歩けるということは、私の気持をほぐし、
その上好きな観音様にお目にかかれると言うことが、楽しみになった。
が、はじめてみると、中々そうは行かない。回を重ねるにしたがい、
初めの予感が当たっていたことを、思い知らされる始末となった。私は
薄氷を踏む思いで、巡礼を続けたが、変幻自在な観世音に幻惑され、
結果として、知れば知るほど、理解を拒絶するものであることをさとる
だけであった。
私の巡礼は、最後に聖林寺へ戻るところで終わっているが、再び拝む天平の
十一面観音は、はるかに遠く高いところから、「それみたことか」というように
見えた。私はそういうものが観音の慈悲だと信じた。もともと理解しようと
したのが間違いだったのである。もろもろの十一面観音が放つ、めくるめく
ような多彩な光は、一つの白光の還元し、私の肉体を貫く。そして、私は思う。
見れば目が潰れると信じた昔の人々のほうが、はるかに観音の身近に
参じていたのだと。
星と祭り、11面観音の描写
井上靖はその「星と祭り」で、多くのの十一面観音を描いている。
渡岸寺
渡岸寺と言うのは字の名前でして、渡岸寺と言う寺があるわけではない。
昔は渡岸寺と言う大きな寺があったそうだが、今は向源寺の管理となっています。
、、、
堂内はがらんとしていた。外陣は三十五、六畳の広さで、畳が敷かれ、
内陣の方も同じぐらいの広さで、この方はもちろん板敷きである。
その内陣の正面に大きな黒塗りの須弥壇が据えられ、その上に三体の
仏像が置かれている。中央正面が十一面観音、その両側に大日如来と
阿弥陀如来の坐像。二つの大きな如来像の間にすっくりと細身の十一面観音
が立っている感じである。体躯ががっちりした如来坐像の頭はいずれも
11面観音の腰あたりで、そのために観音様はひどく長身に見える。
加山は初め黒檀か何かで作られた観音様ではないかと思った。
肌は黒々とした光沢を持っているように見えた。そして、また、
仏像と言うより古代エジプトの女帝でも取り扱った近代彫刻ででもあるように
見えた。もちろんこうしたことは、最初眼を当てた時の印象である。
仏像といった抹香臭い感じはみじんもなく,新しい感覚で処理された近代
彫刻がそこに置かれてあるような奇妙な思いに打たれたのである。
加山はこれまでに奈良の寺で、幾つかの観音様なるものの像に
お目にかかっているが、それらから受けるものと、いま眼の前に
立っている長身の十一面観音から受けるものとは、どこか違っている
と思った。一体どこが違っているのか、すぐには判らなかったが、やがて、
「宝冠ですな、これは、みごとな宝冠ですな」
思わず、そんな言葉が、加山の口から飛び出した。
丈高い十一個の仏面を頭に戴いているところは、まさに宝冠でも戴いている
様に見える。いずれの仏面も高々と植えつけられてあり、大きな冠を
形成している。、、、、、
十一の仏面で飾られた王冠と言う以外、言いようが無いではないかと思った。
しかも、飛び切り上等な、超一級の王冠である。ヨーロッパの各地の博物館で
金の透かし彫りの王冠や、あらゆる宝石で眩く飾られた宝冠を見ているが、
それらは到底いま眼の前に現れている十一観音の冠には及ばないと思う。
衆生のあらゆる苦痛を救う超自然の力を持つ十一の仏の面で飾られているのである。
、、、、
大きな王冠を支えるにはよほど顔も、首も、胴も、足もしっかりしていなければ
ならないが、胴のくびれなどひとにぎりしかないと思われる細身でありながら、
ぴくりともしていないのは見事である。しかも、腰をかすかに捻り、左足は
軽く前に踏み出そうとでもしているかのようで、余裕綽々たるものがある。
大王冠を戴いてすっくりと立った長身の風姿もいいし、顔の表情もまたいい。
観音像であるから気品のあるのは当然であるが、どこかに颯爽たるものがあって、
凛としてあたり払っている感じである。金箔はすっかり剥げ落ちて、ところどころ
その名残を見せているだけで、ほとんど地の漆が黒色を呈している。
「お丈のほどは六尺五寸」
「一本彫りの観音様でございます。火をくぐったり、土の中に埋められたりして
容易ならぬ過去をお持ちでございますが、到底そのようにはお見受けできません。
ただお美しく、立派で、おごそかでございます」
たしかに秀麗であり、卓抜であり、森厳であった。腰をわずかに捻っているところ、
胸部の肉つきのゆたかなところなどは官能的でさえあるあるが、仏様のことであるから
性ではないのであろう。左手は宝瓶を持ち、右手は自然に下に垂れて、掌を
こちらに開いている。指と指とが少しづつ間隔を見せているのも美しい。
その垂れている右手はひどく長いが、少しも不自然には見えない。両腕夫々に
天衣が軽やかにかかっている。
石道寺(しゃくどうじ)
そのとき、初めて加山の眼に厨司に納められている三体の11面観音
の姿が入ってきた。中央の一体は大きく、その両側の二体は小さかった。
中央の一体の顔に眼をあてたままで、「きれいな観音さまですね」
加山は言った。おもわず口から出た言葉だった。美人だと思った。
観音様というより、美人が一人立っている。
加山は中央の十一面観音に眼をあてたまま、厨司の前に進んでいった。
そこに立っているのは、古代エジプトの威ある美妃でもなければ、
頭に戴いているのは王冠でも、宝冠でもなかった。なんとも言えず
素朴ないい感じの美しい観音様だった。唇は赤く、半眼を閉じている
ところは、優しい伏眼としか見えなかった。腰をわずかに捻り、左手
は折り曲げて褒瓶を持ち、右手は自然に垂れて、数珠を中指にかけ、
軽く人差し指を開いている。、、、三体のうち、向って右手の小さな
観音像は、中央の観音像の膝辺り、左手のはそれよりやや大きいが、
やはり中央の観音像の腹部ぐらいの背丈である。この二体はいずれも
真っ黒になっている。まだ小さい方には顔の一部や体の一部に、ごく
僅かに金色が残っているが、もう一体の方は全身に煤が厚く塗られている。
この十一面観音様は、村の娘さんの姿をお借りになって、ここに
現れていらっしゃるのではないか。素朴で、優しくて、惚れ惚れする
ような魅力をお持ちになっている。野の匂いがぷんぷんする。笑いを
含んでいる様に見える口元から、しもぶくれの頬のあたりにかけては、
殊に美しい。ここでは頭に戴いている十一の仏面も、王冠といった
いかめしいものではなく、まるで大きな花輪でも戴いているように見える。
腕輪も、胸飾りもふんわりとまとっている天衣も、なんとよく映えている
ことか。それでいて、観音さまとしての尊厳さはいささかも失っていない。
しかし、近寄り難い尊厳さではない。何でも相談に乗って下さる大きく
優しい気持を持っていらっしゃる。恋愛の相談も、兄弟げんかの裁きも、
嫁と姑の争いの訴えも、村内のもめごとなら何でも引き受けて下さりそうな
ものを、その顔にも、姿態にも示していらっしゃる。
加山は実際に、石道の観音様からこのような印象を受けたのである。
渡岸寺の観音像からも大きな感動を受けたが、ここの観音像からも、
それに劣らぬ鮮烈な印象を与えられていた。二つの観音像は全く対照的であった。
一つは衆生の苦しみを救わずにはおかぬ威に満ちたものであり、
一つはどんな相談にも乗って下さる優しさに溢れている。
、、、、、
「なにしろ、お若うおすわ、この観音さんは。拝む度に若うならはってます。
口元を見なされ、お若うのうては、あんな口元でけしまへんが」
もう1人が言った。観音様もいいが、この女の人たちもいいと、加山は
思った。いかにもみなで、この十一面観音をお守りしている感じである。
観音様を褒められれば、みながわがことのように悦んでいる。
加山はもう一度、その若いといわれる観音像の前に立った。堂内の光線は
前の扉からのと、横手の扉からのもので、さして明るくも無いが、暗くも無い。
ほどほどのやわらかい光線が、小さなお堂の内部に漂っている。厨子の内部は
当然そこだけ暗くなっているが、十一面観音像の面には、さいわい正面の
扉からの光線が当たっている。
観音像の姿は若いが、しかし、造られた年代は、重要文化財の指定を受けている
くらいだから古いに違いない。像全体が元の彩色を失って、古色に包まれており、
その中で唇に残る微かな赤さが目立っている。あるいはこの唇の紅は、
長い年月の間に、誰かが観音像に化粧してあげたのであろうか。
気安くそんな事をする気を起こさせ、また気安くそんなことをお受けに
なりそうな観音さまである。
福林寺
やがて福林寺の前で車は停まった。道に沿って小さい門があり、その門から
二,三間隔たったところに小さいお堂が見えている。
新しい明るい部屋の中には、新しい須弥壇が置かれ、その上にすっくりと立った
十一面観音の姿が見られた。加山は収蔵庫の中に厨司が置かれてあり、
その厨子の中に観音像は収められているとばかり思っていたので、それが
いきなり眼の前に現れたときにははっとした。思わず息をのむような気持で
観音像を仰いだ。蓮の台座の上に立ち、頭光を背負うている。
「ご立派な観音様ですね」、、、、
顔と、体躯の一部は胡粉でも塗ったように白くなっているが、あとは漆地の
黒さで覆われている。天衣はゆったりと長く、宝瓶を持った左腕と、
下にさげている右腕にかけられている。顔はゆたかで麗しい。仏様と言うより
天平時代の貴人でも、そこに立っているような感じを受ける。
口元はぎゅっと締まって、意志的であるが、いささかも威圧感が無い。
「いいお姿でしょうが」
女の人が言った。讃仰というほかない言い方だった。確かに、いい姿だと、
加山も思った。豊麗な十一面観音像である。
加山は収蔵庫の中を、あちこち移動して、美しい十一面観音像を仰いだ。
渡岸寺の十一面観音、石道寺の十一面観音、いずれとも異なっている。
頭に戴いている十一の仏面はいずれも小さく、そのためか、天冠台から
上は本当に冠を戴いている様に見える。そして瓔珞をたくさん胸元に
垂らしているところなどは、やはり咲く花の匂うような天平の貴人が一人、
そこに立っている感じである。ひたすら気品高い観音像である。
「誰かが日の中から救い出したのでしょう、背中の方に火傷の跡があります」
その言葉で、加山は観音像の背後に回ってみた。なるほど背中の一部に
無残にも火を浴びた跡が残っている。
「大抵の観音様は、下に垂らしている右手が長いんですが、この観音様の手は
自然な感じです」
そういわれてみると、そうだった。渡岸寺の十一面も、石道寺の十一面も、
長い手を持っていたはずである。それに比べると、ここの観音像の右手は、
ゆるく折り曲げられてあるせいか、自然の長さに見える。
赤後寺(しゃくごじ)
内部には大きな厨司が置かれていた。厨司の前で、何分か経が読まれた。
その間、加山は閉じられている厨司の前に座っていた。
「この厨司は鎌倉時代のものです」
経を読み終わると、案内者は立ち上がって、厨司の前に進んだ。そして口の中で
何かを低く唱えながら扉を開いた。
「一昨年、重文に指定された十一面観音さまでございます」
加山がそこに見たものは、今まで拝んできた十一面観音とはまるで違った
ものであった。
厨子の中には二つの像があった。
「右手が十一面千手観音さま、左手が大日如来さまでございます」
加山は口から、すぐにはいかなる言葉も出すことは出来なかった。十一面観音
は頭上の仏面全部を失っており、左手七本、右手五本の肱から先の部分を
尽く失っている。無慚な姿と言うほかはない。大日如来もまた同じ様な
姿であった。加山は掌を合わせていた。そして、大三浦がこの席にいたら、
そうするであろうように、朝に、夕に、二つの無慚な姿の仏像が湖の方に
向いて立っていることに対して、感謝の思いを籠めて、頭を垂れた。
「このようなお姿ですが、お顔はなかなかご立派でございます。
先年専門家の人が見えまして、冴えた彫りの美しさを褒めておられました」
十一面の仏面で頭を飾り、腕の欠けた部分を補ってみたら、すばらしい十一面
千手観音が出来上がるに違いなかった。
遠い戦乱の日に、十一の仏面も失われ、腕も失われたのであろう。あるいは
また、兵火の難は一回でなかったかもしれない。今となっては、十一面観音
以外、それが通過した長い時間については、誰も知っていないのである。
やがて扉はしめられた。11面千手観音と大日如来の二つの像は再び厨子の内部
の闇の中に置かれた。
十一面観音について
十一面観音信仰は古い時代からのもので、日本でも八世紀初めの頃からこの観音像
は盛んに造られはじめている。この頃から十一面観音信仰はその時代の人々の生活
のなかに根を張り出しているのである。この観音信仰の典拠になっているものは、
仏説十一面観世音神呪経とか十一面神呪経とか言われるものであって、この経典に
この観音を信仰する者にもたらせられる利益の数々が挙げられている。それによると
現世においては病気から免れるし、財宝には恵まれるし、火難、水難はもちろんの
こと、人の恨みも避けることができる。まだ利益はたくさんある。来世では地獄に
堕ちることはなく、永遠の生命を保てる無量寿国荷生まれることが出来るのである。
また、こうした利益を並べ立てている経典は、十一面観音像がどのようなもので
なければならぬかという容儀上の規定も記している。まず十一面観音たるには、
頭上に三つの菩薩面、三つの賑面、三つの菩薩狗牙出面、一つの大笑面、一つの仏面、
全部で十一面を戴かねばならぬことを説いている。静まり返っている面もあれば、
憤怒の形相もの凄い面もある。また悪を折伏して大笑いしている面もある。
いずれにしても、これらの十一面は、人間の災厄に対して、観音が色々な形に
おいて、測り知るべからざる大きい救いの力を発揮する事を表現しているもの
であろう。
観音が具えている大きな力を、そのような形において示しているのである。
十一面観音信仰が庶民の中に大きく根を張って行ったのは、経典が挙げている数々の
利益によるものであるに違いないが、しかし、そうした利益とは別に、その信仰が
今日まで長く続きえたのは、頭上に十一面を戴いているその力強い姿ではないかと、
加山には思われる。利益に与ろうと、与るまいと、人々は十一面観音を尊信し、
その前に額ずかずにはいられなかったのであろう。そういう魅力を、例外なく
十一面観音像は持っている。
それは例外なく、宗教心と芸術精神が一緒になって生み出した不思議なものであった。
美しいものだと言われれば美しいと思い、尊いものだといわれれば、なるほど
尊いものだと思う意外仕方のないものであった。十一面観音の持つ姿態の美しさを
単に美しいと言うだけでなく、他のもので理解しようと言う気持が生まれたように
思う。そうでなかったら頭上の十一の仏面は、加山には異様なもの以外の
何者でもなかったはずである。それが異様なものとしてでなく、力強く、美しく、
見えたのは、自分がおそらく救われなければならぬ人間として、十一面観音
の前に立っていたからであろうと思う。救われねばならぬ人間として、救う
ことを己に課した十一面観音像の前に、加山は立っていたのである。
盛安寺
日吉神社の近くの盛安寺
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観音堂の前に立っていた。お堂の背後は直ぐに藪になっていて、丘の斜面でも
背負っている感じである。
10畳ほどの広さのお堂で,そのお堂いっぱいに大きな厨司が置かれている。
加山が厨司の前に座ると、その横に池野も座った。須弥壇は厨司にくっついて
いっしょに造られてあるが、扉を開けるには、その須弥壇の上に上がらなければ
ならない。加山は観音像を仰いだ。微かに笑っているようなふくよかな顔である。
眼はほとんど閉じられていて、二本の手は前で合掌し、その両手には天衣が
かけられてある。その手とは別にもう二本の手があって、片方は杖を、片方は
蓮を持っている。頭に戴いている仏面のうち頂上面だけが高い。以前は勿論
彩色してあったものであろうが、もとの色は判らず、古さだけが像全体を
包んでいる。加山は。いま眼の前にある観音像を、自分がこれまで見た同じ
湖畔の他の四体の像と比べることはできなかった。他の四体も、それぞれに
良かったが、これはこれでまたすばらしいと思った。観音様の微笑を含んでいる
顔を仰いでいると、自然にこちらも微笑せずにはいられなくなる、そんな
感じである。
宗正寺
外観は壊れかかったような小さなお堂であるが、内部に入ってみると、新しい
畳が敷かれて、きれいに掃除されいる。正面に厨司があり、厨司の左右は床に
なっている。そして厨司の前だけ五畳ほどが板敷きで、それ以外は畳敷きである。
、、、、その言葉で、加山は厨司の前の板敷きところに座った。
厨司の扉が開けられると、殆ど天井に届きそうな大きな光背を背負った十一面観音
像が現れた。大きな蓮台の上に乗った坐像である。像の高さと、蓮台の高さは
同じぐらいであろうか。
像は全体が漆で黒々としている。唇だけが僅かに赤く、眼には玉が嵌められてあって、
それがきらりと光っている。
「端正なお顔ですね」
加山は言った。頭上の十一の仏面は小さいが、その割りに高々と置かれてある。
それがこの観音様を端正なものに見せている。左手は軽く折って宝瓶を、
右手はゆったりと膝の上にのびて、掌はこちらに向って開いている。
「良く知りませんが、室町時代に造られたものではないかといわれております。
大体、いまはこの観音堂だけになっておりますが、宗正寺と言う寺は天平九年
の開基でして、一時はなかなか寺運旺盛で、頼朝の時には仏供料が寄進され、
建物も豪勢なものようでした。それが織田氏の兵火でやかれました。、、、
「四十何体か、あると言ったね」、、、、
「別に動機なんかない。偶然のことから一、二体拝んだら、何と無く後を引いて
ほかのも拝みたくなった」
「君の場合、信仰と言うものとは、ちょっと違うような気がするんだが」
「そう。信仰とはいえない。こういうのを信仰だと言ったら、観音様が怒るだろう」
、、、、
「僕の場合ははっきりしている。あのような庶民的な十一面観音像にお目にかかった
のは初めてのことなんだ。君の話からすると、どうも湖畔の十一面観音像は、
みんなあのような美しさをもっているのではないかと思う。地方造りのよさ
なんだな。それで、できるなら、それをスケッチしてみようと言う気になった」
下巻
高月の充満寺
やがて、車は国道から左に折れて、湖畔の平原の中に入って行く。山に突き
あたったり、山裾を回ったり、山を越えたりする。そして、車が停まったのは、
山裾の小さな集落の中の寺の前であった。大きな山門のある立派な寺であった。
寺からごく近いところに広場があり、そこに小さなお堂が二つあった。一つは阿弥陀堂
一つは薬師堂で、十一面観音は薬師堂の方に入っているということであった。
二つのお堂はいずれも雪を防ぐためか薦こもで囲いがしてあった。
正面にお厨司が見えている。総代さんはまたお厨司の扉を開けてくれる。二体の
仏像が並んで立っている。いずれも等身大である。
「右は薬師如来、左は十一面観音です」
住職が説明してくれる。
加山はさきに薬師如来立像を拝んでから、十一面観音像の前に立った。がっちりした
体格の観音様である。頭の仏面は小さく、しかも煤けて真っ黒になっており、
ほとんど彫りや刻みは判らない。いつか体だけが漆で塗られたらしく、体だけが
黒く光っている。顔も堂々としており、胸のあたりも、僅かに捻った腰も堂々
としている。
「なかなか立派な観音様ですね」
加山が言うと、
「この観音様をお守りしていますと、他の観音様が貧弱に見えて来てこまります。
何しろ、胸も厚いし腰まわりもみごとです」
「いつ頃のものですか」
「藤原時代の作だということです。大正15年に重文に指定されています」、、、
「この二体の仏像ももとは泉明寺と言う大きなお寺にあったものらしゅうございます」
医王寺
車を降りたとき、加山は淋しいところへ来たといった思いを持った。付近には
何軒か家もあり、車の走る道もあり、別に人跡稀な土地へ入ったわけではないが、
何と無くひどく淋しい所に来たような気持になった。どうしてそういう気持に
なったか、直ぐには判らなかったが、橋を渡って、観音堂のある方に歩いていく時、
「あれ、野分でしょう」
加山は足を停めた。遠くに風のわたる音が聞こえていて、こんなところに淋しさの
原因があるのかもしれないと、その時加山は思った。
「いつか風が出ているんですね」
沢山もまた足を停めて、風の音にみみを傾けている。二人が立っている道の両側に
は大きな薄が密生していて、その枯れた茎がいっせいに風に揺れ動いており、
何と無く茫々としたとりとめのない感じである。
やがてお堂の扉が開けられ、みんな堂内に入った。正面に須弥壇が設けられてあり、
その前は畳敷になっていて、十七、八枚の畳が敷かれている。
腰ぐらいの高さの須弥壇の上に、お厨司が置かれてあり、すぐ扉が開かれた。
「ほう」
加山が思わず感歎の声をあげると、
「きれいな観音様でしょうが」
と厨司を開けてくれた人物が言った。
「若くてきれいですわ。きれいなくらいですから、おしゃれです」
「いいお顔をしていらっしゃる」
加山が言うと、そばにいた沢山が、
「人間にはありませんな、これだけの美人は」
と言った。確かに端麗な顔の十一面観音様である。等身大よりやや小さいが、全身を
いろいろな飾り物で飾ってある。胸飾りも多いし、頭飾りも多い。歩き出したら
あらゆる飾りが鳴り出しそうである。
棟の膨らみはほとんどなく、総体にきりっとした体つきで、清純な乙女の体が
モデルにつかわれてでもいそうに思われる。以前は全身金色に輝いていた
のであろうが、いまは大部分が剥げて黒くなっている。あるいは護摩の煙で
黒くなったのかもしれない。
観音堂は昭和五、六年に建てられたものらしく、それ以前は十一面観音は医王寺
のほうに祀られてあったという。、、、
たくさんの装身具を頭や胸につけた乙女の観音様を拝むのは、光と春風のもとが
一番いいに違いないと思われる。
善隆寺
目指す善隆寺という寺は山際にあって、付近は藁屋根の農家が点々としている。
身長1メートルの小振りな観音像である。頂上仏は大きい。住職の説明によると
平安時代の檜材一木造り、頭部に戴いている仏面の一つは欠けており、重文の指定
は対象十五年であるという。決してすらりとした感じの観音様ではない。
ずんぐりして、がっちりした体つきである。横手に回ると、これこそ日本で、
しかもこの地方で造られた観音様だという気がする。顔も健やかで福々しい。
「腰はほとんど捻っていませんね」
加山がいうと、
「腰を捻るなんて嫌いなんでしょうな。この観音様は」
沢山が言った。そういわれてみればそうかもしれないと思う。飾り気と言うものの
全くない質実な美しい女体を、この観音様は持っておられる。
和辻哲郎の古寺巡礼から思うこと
和辻哲郎の風土からも思うが、ヨーロッパの風土、インドの風土、中国の
文化に対する造詣の深さには、感服する。
この古寺巡礼にも、仏教文化を中心とした造詣をベースとした様々な示唆が
見られる。私自身、全くの実力不足ではあるが、古寺巡礼を通したその想い、
感想から、日本人としての原点?について、少し、記述する。
全然、ずれている事も含め、勝手な個人的想いとしてではあるが。
和辻哲郎の基本的日本文化への想いは、最後に良く書かれている。
これらの
文化現象を生み出すに至った母胎は、我国の優しい自然であろう。
愛らしい、親しみやすい、優雅な、そのくせこの自然とも同じく
底知れぬ神秘を持った我国の自然は、
人体の姿に表せばあの観音(ここでは中宮寺観音)となるほかにない。
自然に酔う甘美な心持ちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴であるが、
その根は、あの観音と共通に、この国土の自然から出ているのである。
葉木の露の美しさも鋭く感受する繊細な自然の愛や一笠一杖に身を託して
自然に溶け合って行くしめやかな自然との抱擁やその分化した官能の
陶酔、飄逸なこころの法悦は、一見、この観音と甚だしく異なるように
思える。しかし、その異なるのは、ただ、注意の向かう方向の相違である。
捕らえられる対象こそ差別があれ、捕らえにかかる心情には、極めて近く
相似るものがある。母であるこの大地の特殊な美しさは、その胎より出た
同じ子孫に賦与した。我国の文化の考察は、結局我国の自然の考察に歸て
行かなくてはならぬ。
・その基本意識
人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とか言う風に泰然と区別してしまう
ことは、正しくない。それは、具体的な1つの生活をバラバラにし、生きた全体
として掴むことを不可能にする。しかし、1つの側面をその美しい特徴によって、
他と区別して観察すると言うことは、それが、全体の一側面であることを
忘れられない限り、依然としてひつようなことである。
芸術は衆生にそのより高き自己を指示する力の故に、衆生救済の方便として
用いられる可能性を持っていた。仏教が芸術と結びついたのは、この可能性
を実現したのである。しかし、芸術は、たとえ方便として利用されたとしても、
それ自身で、歩む力を持っている。だから、芸術が僧院内でそれ自身の活動
を始めると言うことは、何も不思議なことではない。
芸術に恍惚とするものの心には、その神秘な美の力が、いかにも、浄福のように
感ぜられたであろう。宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方が如何に
容易であるかを思えば、かかる事態は、容易に起こり得たのである。
仏教の経典が佛菩薩の形像を丹念に描写している事は、人の知る通りである。
何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。これは、まず、
第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。また、人びとも法華寺経
を指してそれが幻像のでないといいえまい。それは、
まず、第一に佛を主人公とする大きな戯曲的な詩である。観無量寿経の如きは、
特に詳細にこれらの幻像を描いている。佛徒は、それの基づいてみづからの
眼を持ってそれらの幻像を見るべく努力した。観佛は、彼らの内生の
重大な要素であった。仏像がいかに刺激の多い、生きた役目を務めたかは、
そこから容易に理解される。
観世音菩薩は、衆生をその困難から救う絶大な力と慈悲とを持っている。
彼に救われるには、ただ、彼を念ずればよい。彼は境に応じて、時には、仏身
を現じ、時には、梵天の身を現ずる。また、時には、人身も現じ、時には、
獣身をさえも現在ずる。そうして、衆生を度脱し、衆生に無畏を施す。
かくのごとき菩薩は、如何なる形貌を備えていなくてはならないか。
まず、第一にそれは、人間離れした超人的な威厳を持っていなければならない。
と同時に、もっとも人間らしい優しさや美しさを持っていなく絵ならぬ。
それは、根本においては、人ではない。しかし、人体を借りて現れることで、
人体を神的な清浄と美とに高めるのである。
・聖林寺11面観音より
切れの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、
全てわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、
また超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには、神々しい威厳と
人間のものならぬ美しさが現されている。
薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人のこころと運命を見通す観自在のまなこである
。
、、、、、、この顔を受けて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。
、、、四肢のしなやかさは、柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現されていなが
ら、
しかも、その底に強靭な意思のひらめきを持っている。殊に、この重々しかるべき五体
は、
重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。
これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。
・百済観音について
漢の様式の特有を中から動かして仏教美術の創作物に趣かせたものは、漢人固有の情熱
でも思想でもなかった。、、、、、、
抽象的な天が具体的な仏に変化する。その驚異を我々は、百済観音から感受するのであ
る。
人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、それを嬰児の如く新鮮な感動によって迎えた過渡期の
人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。
神秘的なものをかくおのれに近いものとして感じることは、彼らにとって、世界の光景
が
一変するほどの出来ことであった。
・薬師寺聖観音について
美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。、、、、、、
つややか肌がふっくりと盛り上がっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。
衣文につつまれた清らか下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を
表現したものである。しかも、それは、人体の写実的な確かさに感服したが、
、、、、、、、、
もとよりこの写実は、近代的な個性を重んじる写生とはおなじではない。
一個人を写さずして人間そのものを写すのである。
なお、和辻哲郎がその美しさを認めている像には、
薬師寺の薬師如来と夢観音あるが、ここでは、省く。
中宮寺観音は、すでに、和辻哲郎の全体の意識の大きな要因として、
記述した。
・阿弥浄土図について
まことにこの書こそ、真実の浄土図である。そこには、宝池もなく宝楼もなく
宝樹もない。また、軽やかに空を飛翔する天人もいない。ただ大きい弥陀の
三尊と上下の端に装飾的に並べられた小さい人物とがあるのみである。
しかも、そこに、美しい人間の姿をかりて現されたものは、弥陀の浄土と
呼ばれるにふさわしいものである。
文化に対する造詣の深さには、感服する。
この古寺巡礼にも、仏教文化を中心とした造詣をベースとした様々な示唆が
見られる。私自身、全くの実力不足ではあるが、古寺巡礼を通したその想い、
感想から、日本人としての原点?について、少し、記述する。
全然、ずれている事も含め、勝手な個人的想いとしてではあるが。
和辻哲郎の基本的日本文化への想いは、最後に良く書かれている。
これらの
文化現象を生み出すに至った母胎は、我国の優しい自然であろう。
愛らしい、親しみやすい、優雅な、そのくせこの自然とも同じく
底知れぬ神秘を持った我国の自然は、
人体の姿に表せばあの観音(ここでは中宮寺観音)となるほかにない。
自然に酔う甘美な心持ちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴であるが、
その根は、あの観音と共通に、この国土の自然から出ているのである。
葉木の露の美しさも鋭く感受する繊細な自然の愛や一笠一杖に身を託して
自然に溶け合って行くしめやかな自然との抱擁やその分化した官能の
陶酔、飄逸なこころの法悦は、一見、この観音と甚だしく異なるように
思える。しかし、その異なるのは、ただ、注意の向かう方向の相違である。
捕らえられる対象こそ差別があれ、捕らえにかかる心情には、極めて近く
相似るものがある。母であるこの大地の特殊な美しさは、その胎より出た
同じ子孫に賦与した。我国の文化の考察は、結局我国の自然の考察に歸て
行かなくてはならぬ。
・その基本意識
人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とか言う風に泰然と区別してしまう
ことは、正しくない。それは、具体的な1つの生活をバラバラにし、生きた全体
として掴むことを不可能にする。しかし、1つの側面をその美しい特徴によって、
他と区別して観察すると言うことは、それが、全体の一側面であることを
忘れられない限り、依然としてひつようなことである。
芸術は衆生にそのより高き自己を指示する力の故に、衆生救済の方便として
用いられる可能性を持っていた。仏教が芸術と結びついたのは、この可能性
を実現したのである。しかし、芸術は、たとえ方便として利用されたとしても、
それ自身で、歩む力を持っている。だから、芸術が僧院内でそれ自身の活動
を始めると言うことは、何も不思議なことではない。
芸術に恍惚とするものの心には、その神秘な美の力が、いかにも、浄福のように
感ぜられたであろう。宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方が如何に
容易であるかを思えば、かかる事態は、容易に起こり得たのである。
仏教の経典が佛菩薩の形像を丹念に描写している事は、人の知る通りである。
何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。これは、まず、
第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。また、人びとも法華寺経
を指してそれが幻像のでないといいえまい。それは、
まず、第一に佛を主人公とする大きな戯曲的な詩である。観無量寿経の如きは、
特に詳細にこれらの幻像を描いている。佛徒は、それの基づいてみづからの
眼を持ってそれらの幻像を見るべく努力した。観佛は、彼らの内生の
重大な要素であった。仏像がいかに刺激の多い、生きた役目を務めたかは、
そこから容易に理解される。
観世音菩薩は、衆生をその困難から救う絶大な力と慈悲とを持っている。
彼に救われるには、ただ、彼を念ずればよい。彼は境に応じて、時には、仏身
を現じ、時には、梵天の身を現ずる。また、時には、人身も現じ、時には、
獣身をさえも現在ずる。そうして、衆生を度脱し、衆生に無畏を施す。
かくのごとき菩薩は、如何なる形貌を備えていなくてはならないか。
まず、第一にそれは、人間離れした超人的な威厳を持っていなければならない。
と同時に、もっとも人間らしい優しさや美しさを持っていなく絵ならぬ。
それは、根本においては、人ではない。しかし、人体を借りて現れることで、
人体を神的な清浄と美とに高めるのである。
・聖林寺11面観音より
切れの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、
全てわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、
また超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには、神々しい威厳と
人間のものならぬ美しさが現されている。
薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人のこころと運命を見通す観自在のまなこである
。
、、、、、、この顔を受けて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。
、、、四肢のしなやかさは、柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現されていなが
ら、
しかも、その底に強靭な意思のひらめきを持っている。殊に、この重々しかるべき五体
は、
重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。
これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。
・百済観音について
漢の様式の特有を中から動かして仏教美術の創作物に趣かせたものは、漢人固有の情熱
でも思想でもなかった。、、、、、、
抽象的な天が具体的な仏に変化する。その驚異を我々は、百済観音から感受するのであ
る。
人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、それを嬰児の如く新鮮な感動によって迎えた過渡期の
人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。
神秘的なものをかくおのれに近いものとして感じることは、彼らにとって、世界の光景
が
一変するほどの出来ことであった。
・薬師寺聖観音について
美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。、、、、、、
つややか肌がふっくりと盛り上がっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。
衣文につつまれた清らか下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を
表現したものである。しかも、それは、人体の写実的な確かさに感服したが、
、、、、、、、、
もとよりこの写実は、近代的な個性を重んじる写生とはおなじではない。
一個人を写さずして人間そのものを写すのである。
なお、和辻哲郎がその美しさを認めている像には、
薬師寺の薬師如来と夢観音あるが、ここでは、省く。
中宮寺観音は、すでに、和辻哲郎の全体の意識の大きな要因として、
記述した。
・阿弥浄土図について
まことにこの書こそ、真実の浄土図である。そこには、宝池もなく宝楼もなく
宝樹もない。また、軽やかに空を飛翔する天人もいない。ただ大きい弥陀の
三尊と上下の端に装飾的に並べられた小さい人物とがあるのみである。
しかも、そこに、美しい人間の姿をかりて現されたものは、弥陀の浄土と
呼ばれるにふさわしいものである。
十一面観音への想い
岐阜、静岡にもある十一面観音 銅造十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)など8体が白峰村(現白山市) の林西寺住職(当時)、可性法師の手によって収集され、現在も同寺境内の 「白山本地堂」に安置されている。 11面観音を知ったのは、いつごろであろうか。? また、それに、興味を持ったのは、何時頃であったろう。 民衆の欲の具現化といえば、済んでしまうが、湖北の様に、 観音と地域住民が一体となっている文化?では、時の権力者、利用者、 などから適当に庇護されて来た観音とは、大きく違うのではないだろうか。 確かに、京都や奈良の有名寺院に安置されている11面観音とは、外見的な美しさ とは、何か本質的に違う。 その精錬さにはない、ありのままの姿、実体から来る空気の様なもの。 元々が衆生の願いを様々な形で、叶え様としたのが、あのような11面にも及ぶ、 憤怒、希望、などの表現像なのであろう。 個人的には、 かなり欲張りな像でもある。 多分、 有名寺院のそれは、美術品?、安置している寺院には失礼だが。 地域に有る観音は、住民の希望の体現化されたものであろう。 見る人にとっての基本的な心構えが違う。 例えば.有名寺院の11面は、その部位としての美しさが主となるかもしれないが、 地域の11面は、各人の欲望であり、病気祈願の切実な願いかもしれない。 具体的な有名寺院の11面観音については、 私のアメブロの、(^-^)/最後の旅(中断しているが)に(^-^)/も、もう少し投稿している ので、 それを参考にしてもらいたい。 今度は、観音を拝観するよりも、衆生の方々のすがた、空気、出来れば、 その想いなどをじっくりと味わいたい。 個人的には、第六の転換が主で有る以上、趣味的な美術品的11面観音には、 興味が薄れつつある。 11面の構成は、 ・頂上仏面(如来相) ・正面3面菩薩 ・右3面の瞋怒面(怒り) ・左3面の狗牙上出面 ・後1面の笑怒面 とのこと。 そして、10種の勝利(現世の利益)、4種の果報(死後成仏)を実現されようとしている。 別に、今後も、来世に期待はしないが、人の欲望は、尽きぬもののようで有る。 私としては、 第六の転換に合わし、この11面観音とどのような付き合い方が望ましいの であろうか? 今後の私の想いからすれば、単なる趣味的な、美術品的鑑賞は、意味がない。 そして、これらが、 日本文化の今も残る具現化されたもので有ることにも変わりもない。 鑑賞した時の、印象はいらない。 (^-^)/やはり、和辻哲郎の風土、古寺巡礼に有る、日本文化の底流探しが、 11面観音に接触する事の意義である。
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