白洲正子は「十一面観音巡礼」で様々な地域にある十一面観音について
訪問した時の印象を中心に描いているが、その一端をここに記す。
若狭に十一面観音が多いことも、水の信仰と無関係ではあるまい。
複雑な海岸線に取り囲まれ、海の幸、山の幸に恵まれたこのうるわしい
背面そともの国は、まことに観音様にはふさわしい霊地と言える。
中でも羽賀寺の十一面観音は、優れた彫刻で、それやこれやで取材に
行くのが楽しみであった。、、、中でも桃山時代に書かれた「羽賀寺
縁起」はみごとなもので、巻末に後陽成院のしんかんがついている。
それによるとこの寺は元正天皇の霊亀2年(716)、行基の草創で
天暦元年(947)の地震で山が崩れ、つづく暴風に、堂塔ことごとく
地下に埋没した。村上天皇の勅願により、寺は程なく再興されたが、
その後も度々火災にみまわれ、後花園天皇、後陽成天皇などによって
修復された。、、、、やがて、本堂にたどり着いた。
室町時代ののびのびとした建築である。とびらがきしみ、お厨司が開いて、
すらりとした十一面観音が、ろうそくの火影のもとに浮かび上がった。
思ったより華奢なお姿で、彩色が鮮やかに残っている。大きな眼と、
気品の高い唇、細く伸びた指の美しさは、元正天皇の御影とされたのも、
さもあらんと思われる。ワカサの名から連想するわけではないが、こんなに
若々しい観音様を私は見たことがない。時代は平安初期、檜の一本造りで、
このような仏像が、都を遠くはなれた僻地に残っているのは奇蹟としか
思えない。それは当時の文化の高さを物語るとともに、天平時代に若狭
が占めていた位置を、無言の中に語るようであった。
お堂を出る頃は、月が中天にかかっていた。山の上から眺める雪景色
は、夢のように美しく、私は寒さも忘れてしばし佇んでいた。山が入り組んで
いるため、ここからは見えないが、北川をへだてて、南には多田ヶ岳が
聳えているはずで、遠敷川はその山裾を流れている。西側の谷には、
多田寺と言う古刹があり、ここにも十一面観音が祀ってある。北川を
はさんで、羽賀寺、多田寺、国分寺、若狭姫、若狭彦とその神宮寺、
根来八幡などが、殆ど一線上に並んでいるのは、多田ヶ岳を源流とする
水の信仰と切り離して考えるわけにはいかない。
私にとって、十一面観音は、昔からもっとも魅力ある存在であったが、
怖ろしくて、近づけない気がしていたからである。巡礼ならどんな無智
なものにでも出来る。手ぶらで歩けるということは、私の気持をほぐし、
その上好きな観音様にお目にかかれると言うことが、楽しみになった。
が、はじめてみると、中々そうは行かない。回を重ねるにしたがい、
初めの予感が当たっていたことを、思い知らされる始末となった。私は
薄氷を踏む思いで、巡礼を続けたが、変幻自在な観世音に幻惑され、
結果として、知れば知るほど、理解を拒絶するものであることをさとる
だけであった。
私の巡礼は、最後に聖林寺へ戻るところで終わっているが、再び拝む天平の
十一面観音は、はるかに遠く高いところから、「それみたことか」というように
見えた。私はそういうものが観音の慈悲だと信じた。もともと理解しようと
したのが間違いだったのである。もろもろの十一面観音が放つ、めくるめく
ような多彩な光は、一つの白光の還元し、私の肉体を貫く。そして、私は思う。
見れば目が潰れると信じた昔の人々のほうが、はるかに観音の身近に
参じていたのだと。
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