2016年1月28日木曜日

白洲正子、かくれ里より

かくれ里では、十一面観音の記述は少ないが、、「本尊はいうまでもなく、白山の
本地十一面観音だ。」という。白山信仰について興味を誘う。


さいわいこの地方には古くから織物の伝統があった。延喜式にも、美濃は「上糸国」
とされており、特に耕地の少ない北部では、曾代系といって、伊勢神宮に納める
上質の糸を作っていた。そういう土地柄だから、一般農家でも織物はさかんだった。
宗広さんはそこへ目をつけたのだが、、、、、、、
今度は製品を売りさばくのに困ってしまった。
私はその人物と作品に興味を持った。織物はまだ充分な形をなしていなかったが、
とかくごまかすことしか知らない商人、というよりごまかす事が技術であり、
美徳であるような工芸の世界に、これだけ一風変わった新鮮な味を持っていた。
近頃の手織りの欠点は地方の特色をなくした事である。有名な産地ほど、
その傾向が強い。
素人っぽさとか、うぶさと言ってもいいが、土地に染み付いた土の香り、
そういうものが彼の織物にはあった。えてして相したものは消えやすい。
その人柄から見て、心配はなさそうだが、将来のことはわからない。
一体どんな所でどんな人が織っているのだろう。半ば好奇心と商売気から、
白鳥村を訪れたのは、その翌年の春のことである。
開拓部落は、聞きしに勝る貧しさで、辛うじて生活しているといった状態、
よくもこんな所に住んでいられると思うような荒涼とした原っぱにすぎない。
その夜は宗広さんのお宅にご厄介になったが、家といっても掘っ立て小屋
見たいなもので、その中に藍瓶を置き、手を真っ黒に染めている姿に、私は
心を打たれた。周りの畠には紅花やかりやすなど、植物染料のたぐいも
育てられている。糸から染めにいたるまで、一貫した作業が行われており、
織るのは村の人たちも手伝った。それにしても無一文の人間が、千人近くの
大世帯を支えているのは大変な重荷であろう。泥まみれの後姿を見て、
私は好奇心からこんな所へきてしまったことを恥ずかしく思った。
、、、、、その間に宗広さんは自力で大きく育っていった。「郡上つむぎ」
といえば、染織界では有名で、伝統工芸の賞も既にいくつか獲得した。
今や彼は一流作家であり、押しも押されぬ一方の旗頭である。だが、その
人柄が変わらぬように、織物も初めのうぶさを失っていない。どちらかといえば
そんな風にのびていくのを見るほどうれしいことはない。開拓村の方も
順調に発展し、国から借りていた土地も、概ね個人の所有に帰しているという。
、、、、、、、、
長良川に沿って、快適なドライブを楽しみつつ北上すると、一番初めにくる
大きな町は関市である。ここの春日神社には、桃山時代の能装束がたくさんあり、
博物館の展覧会などで拝見しているので、ちょっと敬意を表しによってみる。
町と言っても、大通りを外れると閑散とした風景で、神体山を背景にささやかな
神社が建っており、今日は神主さんもご不在で、拝見する事はできないが、
道草好きの私にはかえってそのほうがよかったかもしれない。
能装束といえば、これから行く長滝の白山神社にも、古い面や装束がある。
ことに鎌倉時代の稚児の面はすばらしく、能面の本にも載せさせて頂いたが、
いずれも博覧会で見ただけで、神社を訪ねていないのが、心残りだった。
美術品は、その生まれた場所で見るとまた格別な味わいがある。それにしても、
このような山奥に多くの名品がかくれているのは不思議だが、1つには
白山信仰と関係があり、越前にちかいためもあって、そういうものが街道筋に
散らばったのであろう。今でこそ山間の僻地だが、昔は長良川沿いに特殊な
文化が開けていた。石器時代から縄文、弥生へかけての遺跡もあり、昔の
人々にとって、川と言うものがどれほど大きな役目をはたしたか、また
その川が流れ出る山が崇められたのも、自然の成り行きだった事が分かるのである。
美濃紙で有名な美濃市をすぎる頃から山が迫ってきて水はいよいよ澄んで来る。
空気がいいせいか、この辺の紅葉はひとしくお美しく、名もない雑木が様々の
色に染まりつつ、反射しあっている様は、誠に「錦繍の山」という形容に
ふさわしい。それは能の衣装にも、宗広さんの紬にも共通する日本の色
であり、ニューアンスともいえよう。

白鳥へはやはり国体の余波でいい道が出来、末は越前の大野まで続いている。
私たちは、1時間たらずで長滝の白山神社の境内に立っていた。
昔、この村に美しい白鳥が住んでいた。ある日、1枚の羽を落として飛び去ったが
村の人々はそれを神の化身と信じ、形見の羽を祀ったのが、白鳥の名の起りである
という。羽衣の天人とか、日本武伝説の原型と思われるが、そういうものと
結びつかなかったのは白山比売の化身、もしくは魂と信じられたからに違いない。
後に泰澄大師が白山を開いたときも、その白鳥が現われて案内したと伝えている。
ここに養老の初めの頃、泰澄が開いた長滝寺という名刹があった。一名、美濃馬場
ともいう。白山をめぐって、加賀にも越前にも馬場と名づけるところがあるが、それは
古代の祭り場を現しているとともに、また実際に馬を乗り捨てて、ここからは徒歩で
登る慣わしがあったらしい。白山の登山口として、最初からあった山口の神社に
長滝寺が合体し、山岳信仰の中心をなしていたが、明治の廃仏毀釈によって、寺は
壊滅し、再び当初の姿に戻ったというわけである。、、、、、、
千年の歴史を滅ぼした罪は重い。
だが、さすがに古い社は荒れはてても、どこか静かな落ち着きがあって、昔の面影が
失われたわけではない。千年の樹齢を持つ杉の大木、正和の銘のある見事な石灯篭
お寺の講堂のような拝殿など、何もかも大きく、ゆったりして、かっての壮観を
ほうふつとさせている。特に神さびた本殿は美しい。神社の事だから、何度も
建て替えたにちがいないが、伊勢神宮と全く同じ神明造りで、伊勢より一回りも
大きそうである。
宮司の邸も古い建築で、杉の柾目の総づくりよいうのは珍しい。宮司さんは、
若宮さんといって、現在は29代目で、平安時代に奈良から移ってこられたという。
庭前の紅葉を眺めながら、お茶を頂いたあと、宝物館へ案内してくださる。
まず目に付くのは先に書いた稚児の面で、一応「延命冠者」ということになっているが

能面よりずっと古い時代の作で、しっかりした彫刻とうぶな色彩が美しい。、、、、
この神社では毎年1月6日に「花奪祭り」という神事が行われる。
6日祭りとも言われている。拝殿に高くつった花笠を奪い合う行事で、荒っぽい
のは山伏の伝統であろうが、その花をもって帰ると蚕がよく育つという信仰があり、
祭りの時には日本全国から織物関係の人たちが集まってくるという。
それは古代の花祭り、稲の花をかたどって、豊作を祈る行事に養蚕が加わって
行ったのであろう。白山の信仰には、色々なものがくっついてわからなくなって
いるが、初めの神様を菊理比売(くくりひめ)といい、蚕と織物の守り神であった。
いま、東本殿に祀ってある「衣襲明神」がその後身であるが、まさに庇を
貸して母屋を取られた形で、最初は菊理比売だけを奉じていたのが、だんだん
格の高い神に合祀されて行ったのであろう。
が、私が面白いと思うのは、いくらたくさんのものがくっついても、民衆の
信仰は、常に初めの神とともにあるということだ。生活を離れて信仰はない。
この神社を支えたのは、仏教でも神道でもなく、太古さながらの農業の神であり、
特に蚕が中心になっている。6日祭りは千年も続いているというが、それは
誇張ではあるまい。あるいは、それ以前から続いていた祭事であったかもしれない。
そして、その祭りにはくくり姫が現われて舞う事があったろう。あの美しい面は
実は延命冠者でもちごでもなく、そのときつける面ではなかったであろうか。
中尊寺の同型の面が、「若女」と呼ばれること、また、「白山権現」と記して
あるのを思うとき、それは男の面ではなく、白山のご神体であったように
思われる。、、、、
そういえば、6日祭りには、延年の舞が行われるという。延年は、日光の輪王寺
と、平泉の中尊寺にしかない古式の芸能で、ここに来て私は、はじめて
白山神社にも伝わっている事を知った。

--------
平泉寺は勝山市の郊外にある。福井から九頭竜川を東へ遡ると30分余りで
勝山に着く。勝山の南で、九頭竜川に分かれ、支流の女神川にそってしばらく
行くと、話に聞いた参道が見えてくる。入り口の森を「菩提樹林」というが、
実は林ではなく、林のようにうっそうと茂った並木道なのである。左手に
大師山、右に三頭山、そのはるかかなたに白山も望めるはずだが、
今日は霞んでいて見えない。参道の両側は谷で、台地の尾根伝いに登って
行くが、昼なお暗い大木の杉並木は。聞きしに優る見事さで、行けども
行けども寺へは着かぬ。やがて、目の前が明るくなり、ゆるやかな石段が
見えてきて、「平泉白山神社」と記した石標似つきあたった。山門も
鳥居もなく、小さな茶屋が、二軒あるきりの門前は、永平寺とは
打って変わった静けさである。石段を登った左手に平泉さんのお住まいが
ある。平泉家は、桃山時代からつづいた平泉寺の別当で、庭は室町時代
に造られたもので、人手がないために少し荒れているが、10何種類もある
という苔の緑は、目が覚めるように鮮やかである。境内を歩いてみると
平泉寺について、私の知識は皆無であったが、余程大きな寺だったらしく、
方々に礎石や石垣が残っており、杉の林は全山苔でおおわれている。
それも排気ガスと観光客で痛みつけられた京都の寺院とはちがって、
季節としては決していいとはいえないのに、ビロードをしきつめたように
ふっくらと盛り上がり、木洩れ日に光る景色は実に美しい。
平泉家をでて、少し登ったところ、左手に「平泉」の元である霊泉がある。
今でも豊かに水があふれており、そこから流れ出た水は、かたわらの
「御手洗池」に注いでいる。その横に三角型に仕切った石畳があって、真ん中に
一本、そして三つの隅に一本づつ神木の杉が植わっているが、これは
白山の三山(大御前、別山、越南知おなむち)をかたどったものだろう。
後に知ったのだが、なんでも三つに分けるのが、白山信仰の形式らしく
登山口も、美濃馬場の長滝寺、加賀馬場の白山本宮、そして越前の平泉寺
に分かれている。三つの国にまたがり、三つの峰に分かれているのが、自然に
そういう形を生んだのである。「馬場」の名がはじめて史上に現われるのが
平家物語で、そこから先は馬を乗り捨て、徒歩で登るのが決まりであったという。
平泉の霊泉辺りは禁足地であったようで、古い石垣の跡が残り、そこから木立ちの
中を少し登ると、鳥居が見え、その奥に拝殿が望める。山王鳥居というのか、
日吉神社と同じ様に真ん中が山形になっているのは、山岳信仰を現している
のであろう。突き当りの石段を登った所が、本社で、左右に越南知と別山を
祀ってあるが、大きな石垣にそって、右に登っていくと、まるでケルンといった
具合にこわれた石物や石塔がるいるいと積み上げられ、一向一揆の暴力によるのか
廃仏毀釈の破壊によるのか、私はしらないけれど、この寺が経てきた厳しい
歴史を物語っている。その上方に大きな楠公の五輪塔が立っているが、これも
寄せ集めの石らしくやはり同じ時に壊されたのを、復元したものにちがいない。
そのあたりから、白山へ登る山道がついていて、ここまで来るとさすがに
深山らしい気配に満ち、冷え冷えとした空気が身に沁みる。が、苔の緑が
鮮やかなので、暗い感じは1つもなく、すぎの梢をすかして、ずっとしたまで
見通せる景色は気持がいい。
平泉寺に残っているのは、要するにすぎの大木と苔だけで、建物も仏像も
石造美術もない。それがいっそうさっぱりしていた。なんのことはない、
私は苔にひかれてお参りしたわけで、そのときは、それだけで帰ってきた。
、、、、
それから間もなく、私は美濃の長滝寺を訪れた。面を見るのが目的であったが、
そこでも白山信仰と泰澄大師の足跡にふれ、その周辺には、白山神社が
百以上も現存する事を知った。お生みの湖北を訪ねた時には渡岸寺をはじめとする
多くの寺院が泰澄大師の開基を伝え、白山の本地仏である十一面観音を祀っていた。
お膝元の越前は、もちろんのこと、行く先々に白山神社があり、大師の信仰が
今も根強く残っている事に驚くといった具合で、それまで縁もゆかりも
なかったものに、次第に興味を覚えるようになって行った。というより、
興味を持ったために白山とか最澄と言う名前が、耳に止まる様になった。
越前には平安朝に書かれた「泰澄大師伝」が伝わっており、「越の大徳」
とも呼ばれていた。様々な古文書からは泰澄大師は、山岳信仰の創始者で、
神仏習合の元祖であると言っていい。私はこの思想が、日本の全ての文化に
わたる母体とおもっているが、泰澄は役行者ともほぼ同時代の人で、
行基、玄坊も共鳴したとすれば、そういう機運はあらゆる所に
芽生えていたに違いない。よく知られているのは、東大寺建立に際し、
宇佐八幡が勧請されたことで、史上に現われた垂迹思想の嚆矢とされる。
周知の通り、本地垂迹とは、仏がかりに神の姿に現じて、衆生を済度
するという考え方だが、それは仏教の方からいうことで、日本人本来の
心情からすれば、逆に神が仏に乗り移って影向ようごうしたと解すべき
であろう。その方が自然であるし、実際にもそう言う過程を経て発達した。
泰澄でいえば、白山信仰の長い歴史があったから、仏教が無理なく吸収され
神仏は極めて自然に合体する事を得たのである。、、、

越智山も、三十八社(産所八社で泰澄の産所)からはあまり遠くない。
この山は、丹生郡に属し、越前岬の東方にある。近づくにつれて、なだらかな
山容が見えてくるが、「越智」と言う名前からして、古くは越の国の神山
だったのではあるまいか。見かけより深く、嶮しい山で、奥の院は女人結界
の魔所になっていたといい、東に白山、西に日本海を望む風景は、この辺きっての
雄大な眺めである。少年泰澄が籠もったのは、そういう景色の神山であった。
あしたには白山に日の出を拝み、夕べは落日に染まる日本海を眺めたに違いない。
十一面観音が現われたのは、そういう瞬間ではなかったか。その面影を慕って、
白山登頂を思い立った。現代の登山家は山を征服するというが古代の人々は
はるかに敬虔な気持で、自然と一体化するする事を望んでいた。両者に共通
するものは、止むに止まれぬ山への憧憬で、そういう意味で、登山と言うもの
は、極めて官能的なスポーツであり、信仰でもあったと私は思う。

白山は越前平野のどこからでも望めるが、越智山からは真東に当たり、太陽の
信仰ととも関係があったのではなかろうか。三つの峰が、一望のもとに見渡される
のも、越智山の方角からで、あるいは白山の遥拝所の一つだったのかもしれない。
泰澄が晩年を送ったという大谷寺は、麻生津と越智山の中間にあり、街道から
石段を登った所に、ささやかなお堂が建っている。前は蓮池で、この蓮糸で曼荼羅
を織ったという中将姫の伝説も残っている。お堂の脇を入った所に、大師の
墓と伝える九重の石塔があるが、鎌倉頃の作で、キチンと整備されているのは、
信仰がまだ生きている証拠であろう。そこから少し登った平地に、「御本地堂」
があり、本尊はいうまでもなく、白山の本地十一面観音だ。
越智山、大谷寺、泰澄寺、そしてさらに平泉寺へと、泰澄の道はまっすぐ白山
を目指している。泰澄はやはり三上の祝はふりの血を受けた、古代シャーマニズム
の代表者であったのだ。役行者と混同されたり、また役行者をモデルにした架空の
人物といわれるのも理由がないことではないが、実在しもしない人間に、こんな
多くの伝承が残り、信仰が伝わる事がありえようか。
麻生津から平泉寺へ向う途中、九頭竜川の岸に、小舟渡と称する村があり、そこに
「伏拝」と言う場所がある。白山の遥拝所の1つで、清黎な河原を隔てて、山の
全貌がくっきりと見渡せる。丁度川が迂回する地点にあるので、清らかな流れが
小波たてて、白山からこちらに向って流れてくるように見える。泰澄もそれから
後の行者たちも、この神奈備の地で禊をして、山に向って奇岩を込めたのであろう。
、、、、、、
一時は六千坊といわれた修験道の本山で、多くの僧兵を擁した平泉寺も、今は
菩提樹の奥深く、眠るが如く静まっている。四万五千坪もあるという境内は、
深閑としていることに変わりはない。平地は暑かった越前も、ここまで来ると
別天地で、水を含んだ苔は秋よりも美しいく、すぎの木立ちも生き生きして見える。
平泉寺のお庭には、紗羅双樹の花が咲いていた。椿に似て、椿よりぱっちりした
清楚な花で、ほのかな芳香が周囲にただよう。渡しは生まれて初めて見たのだが、
いかにも釈迦の涅槃にふさわしい花である様に思った。
丁度日が落ちる頃で、斜光の中に苔は輝きを増し、やがて長くひいた木立ちの
影に、刻一刻と沈んでいく。白山の雪も、茜色に染まっていることだろう。
先ほど、伏拝から眺めたとき、この夏の最中に、まだ斑雪がのこっているのを
みて、さすが「越の白山」だと感心したが、一般には「加賀の白山」で通っている。
が、それは徳川時代に言われ始めた事で、ここではどうしても「越前の白山」
でないとおさまりがつかない。越智山から平泉寺に至る泰澄大師の道、三つの峰が
同時に見えること、また濃美と加賀の中間にあって、主神の「大御前」を表徴
している事も、越前を本家と見るべきであろう。


白洲正子さんの名著『かくれ里』(講談社学術文庫)。
昭和40年代、2年間にわたって雑誌連載されたものが、昭和46(1971)年に単行本化。
24章からなら随筆は、紀行文の白眉として、多くの人の心に感動を与えました。
単行本の発売から45年を経て、今なお人気は根強く、この本を片手に旅をする人
が後を絶ちません。
白洲正子さんはこの名著の冒頭で、「秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、
ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも「かくれ里」の名にふさわしいような、
ひっそりとした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである。」
と記しています。
最終的には24章にまとめられましたが、その影には、実際に足を運びながら掲載
されなかった"かくれ里"も、かなりの数あったと言われています。
そうやって、白洲正子さんが丹念に歩き、取材した地だけあって、この本に出てくる
かくれ里の地はどこも、半世紀近く経った今も、その美しさを保っています。
私アンドリューも、油日(あぶらひ)、櫟野(いちの)、宇陀(うだ)、河内長野滝の畑、
大和円照寺(えんじょうじ)周辺、越前平泉寺(へいせんじ)、葛城と、この本に登場
する地を尋ねましたが、どこも清冽な空気が流れ、俗世の猥雑さを感じないところばかり。
何より、白洲正子さんの著書で読んだのと同じ、半世紀以上前の光景が今も残っている
ことに感激しました。
そんな中でも、最もその美しさに感動したのが、高野山にほど近い、和歌山県伊都郡
かつらぎ町にある「天野(あまの)」の地。
『かくれ里』の中で白洲正子さんが、「ずい分方々に旅をしたが、こんなに閑(のどか)で、
うっとりするような山村を私は知らない。」と評した、美しい山里です。
紀ノ川沿いから曲がりくねった山道を延々登り、さらに奥深い森に細い道が分け入り、
もうこの先には獣道しかないのではないか? と不安になった次の瞬間に、視界が
パッと開け、神に守られたような、奇跡のように美しい山里が目の前に開けるのです。
まさに、「天国に一番近い場所」と、アンドリューは感動いたしました。
この天野の地にはまた、美しい丹生都比売(にうつひめ)神社があります。
見事な太鼓橋を渡って入る神域は、美しい空気と清い湧き水、そして太陽の木漏れ日
までがありがたく、違って見えます。体の中から浄化されるのを実感することができるでしょう。
重要文化財の四棟の本殿の美しいこと! その屋根の桧皮葺の優美なこと!
丹生都比売神社は、「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつとして、2004年、ユネスコ
の世界文化遺産にも登録されました。また、最近はパワースポットとしても知られる
ようになりましたし、昨年和樂のインスタグラムでは、かわいい「犬みくじ」が大
反響となりました。
発売中の和樂10・11月号では、「今こそ、『かくれ里』の旅に出かけよう」という特集で、
この和歌山県かつらぎ町天野の地と、丹生都比売神社への旅をご紹介しています。
この天野からほど近いところには、今、大河ドラマ「真田丸」で話題となっている
九度山(くどやま)の地もあります。真田昌幸・幸村ゆかりの真田庵などへのガイドも
記事中にあります。
また、弘法大師空海の御母堂がいらした、やはり世界遺産の慈尊院(じそんいん)
もあります。(空海は女人禁制の高野山から月に9回、山を降り、この慈尊院の母に
会いに来たことから九度山という地名がついたと言われているのだとか)
かくれ里の地、天野と丹生都比売神社、そして空海と真田昌幸・幸村親子ゆかりの
九度山の地への旅、和樂を読んで出かけられてはいかがですか?
「かくれ里」特集と、九度山のガイドを掲載した和樂10・11月号の発売期間は
10月31日まで。残り3日! 是非ともこの週末、書店にてご購入いただきますよう、
お願いいたします。84

0 件のコメント:

コメントを投稿