岐阜、静岡にもある十一面観音 銅造十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)など8体が白峰村(現白山市) の林西寺住職(当時)、可性法師の手によって収集され、現在も同寺境内の 「白山本地堂」に安置されている。 11面観音を知ったのは、いつごろであろうか。? また、それに、興味を持ったのは、何時頃であったろう。 民衆の欲の具現化といえば、済んでしまうが、湖北の様に、 観音と地域住民が一体となっている文化?では、時の権力者、利用者、 などから適当に庇護されて来た観音とは、大きく違うのではないだろうか。 確かに、京都や奈良の有名寺院に安置されている11面観音とは、外見的な美しさ とは、何か本質的に違う。 その精錬さにはない、ありのままの姿、実体から来る空気の様なもの。 元々が衆生の願いを様々な形で、叶え様としたのが、あのような11面にも及ぶ、 憤怒、希望、などの表現像なのであろう。 個人的には、 かなり欲張りな像でもある。 多分、 有名寺院のそれは、美術品?、安置している寺院には失礼だが。 地域に有る観音は、住民の希望の体現化されたものであろう。 見る人にとっての基本的な心構えが違う。 例えば.有名寺院の11面は、その部位としての美しさが主となるかもしれないが、 地域の11面は、各人の欲望であり、病気祈願の切実な願いかもしれない。 具体的な有名寺院の11面観音については、 私のアメブロの、(^-^)/最後の旅(中断しているが)に(^-^)/も、もう少し投稿している ので、 それを参考にしてもらいたい。 今度は、観音を拝観するよりも、衆生の方々のすがた、空気、出来れば、 その想いなどをじっくりと味わいたい。 個人的には、第六の転換が主で有る以上、趣味的な美術品的11面観音には、 興味が薄れつつある。 11面の構成は、 ・頂上仏面(如来相) ・正面3面菩薩 ・右3面の瞋怒面(怒り) ・左3面の狗牙上出面 ・後1面の笑怒面 とのこと。 そして、10種の勝利(現世の利益)、4種の果報(死後成仏)を実現されようとしている。 別に、今後も、来世に期待はしないが、人の欲望は、尽きぬもののようで有る。 私としては、 第六の転換に合わし、この11面観音とどのような付き合い方が望ましいの であろうか? 今後の私の想いからすれば、単なる趣味的な、美術品的鑑賞は、意味がない。 そして、これらが、 日本文化の今も残る具現化されたもので有ることにも変わりもない。 鑑賞した時の、印象はいらない。 (^-^)/やはり、和辻哲郎の風土、古寺巡礼に有る、日本文化の底流探しが、 11面観音に接触する事の意義である。
2016年1月28日木曜日
十一面観音への想い
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