2016年1月28日木曜日

星と祭り、11面観音の描写

井上靖はその「星と祭り」で、多くのの十一面観音を描いている。

渡岸寺
渡岸寺と言うのは字の名前でして、渡岸寺と言う寺があるわけではない。
昔は渡岸寺と言う大きな寺があったそうだが、今は向源寺の管理となっています。
、、、
堂内はがらんとしていた。外陣は三十五、六畳の広さで、畳が敷かれ、
内陣の方も同じぐらいの広さで、この方はもちろん板敷きである。
その内陣の正面に大きな黒塗りの須弥壇が据えられ、その上に三体の
仏像が置かれている。中央正面が十一面観音、その両側に大日如来と
阿弥陀如来の坐像。二つの大きな如来像の間にすっくりと細身の十一面観音
が立っている感じである。体躯ががっちりした如来坐像の頭はいずれも
11面観音の腰あたりで、そのために観音様はひどく長身に見える。
加山は初め黒檀か何かで作られた観音様ではないかと思った。
肌は黒々とした光沢を持っているように見えた。そして、また、
仏像と言うより古代エジプトの女帝でも取り扱った近代彫刻ででもあるように
見えた。もちろんこうしたことは、最初眼を当てた時の印象である。
仏像といった抹香臭い感じはみじんもなく,新しい感覚で処理された近代
彫刻がそこに置かれてあるような奇妙な思いに打たれたのである。
加山はこれまでに奈良の寺で、幾つかの観音様なるものの像に
お目にかかっているが、それらから受けるものと、いま眼の前に
立っている長身の十一面観音から受けるものとは、どこか違っている
と思った。一体どこが違っているのか、すぐには判らなかったが、やがて、
「宝冠ですな、これは、みごとな宝冠ですな」
思わず、そんな言葉が、加山の口から飛び出した。
丈高い十一個の仏面を頭に戴いているところは、まさに宝冠でも戴いている
様に見える。いずれの仏面も高々と植えつけられてあり、大きな冠を
形成している。、、、、、
十一の仏面で飾られた王冠と言う以外、言いようが無いではないかと思った。
しかも、飛び切り上等な、超一級の王冠である。ヨーロッパの各地の博物館で
金の透かし彫りの王冠や、あらゆる宝石で眩く飾られた宝冠を見ているが、
それらは到底いま眼の前に現れている十一観音の冠には及ばないと思う。
衆生のあらゆる苦痛を救う超自然の力を持つ十一の仏の面で飾られているのである。
、、、、
大きな王冠を支えるにはよほど顔も、首も、胴も、足もしっかりしていなければ
ならないが、胴のくびれなどひとにぎりしかないと思われる細身でありながら、
ぴくりともしていないのは見事である。しかも、腰をかすかに捻り、左足は
軽く前に踏み出そうとでもしているかのようで、余裕綽々たるものがある。
大王冠を戴いてすっくりと立った長身の風姿もいいし、顔の表情もまたいい。
観音像であるから気品のあるのは当然であるが、どこかに颯爽たるものがあって、
凛としてあたり払っている感じである。金箔はすっかり剥げ落ちて、ところどころ
その名残を見せているだけで、ほとんど地の漆が黒色を呈している。
「お丈のほどは六尺五寸」
「一本彫りの観音様でございます。火をくぐったり、土の中に埋められたりして
容易ならぬ過去をお持ちでございますが、到底そのようにはお見受けできません。
ただお美しく、立派で、おごそかでございます」
たしかに秀麗であり、卓抜であり、森厳であった。腰をわずかに捻っているところ、
胸部の肉つきのゆたかなところなどは官能的でさえあるあるが、仏様のことであるから
性ではないのであろう。左手は宝瓶を持ち、右手は自然に下に垂れて、掌を
こちらに開いている。指と指とが少しづつ間隔を見せているのも美しい。
その垂れている右手はひどく長いが、少しも不自然には見えない。両腕夫々に
天衣が軽やかにかかっている。

石道寺(しゃくどうじ)

そのとき、初めて加山の眼に厨司に納められている三体の11面観音
の姿が入ってきた。中央の一体は大きく、その両側の二体は小さかった。
中央の一体の顔に眼をあてたままで、「きれいな観音さまですね」
加山は言った。おもわず口から出た言葉だった。美人だと思った。
観音様というより、美人が一人立っている。
加山は中央の十一面観音に眼をあてたまま、厨司の前に進んでいった。
そこに立っているのは、古代エジプトの威ある美妃でもなければ、
頭に戴いているのは王冠でも、宝冠でもなかった。なんとも言えず
素朴ないい感じの美しい観音様だった。唇は赤く、半眼を閉じている
ところは、優しい伏眼としか見えなかった。腰をわずかに捻り、左手
は折り曲げて褒瓶を持ち、右手は自然に垂れて、数珠を中指にかけ、
軽く人差し指を開いている。、、、三体のうち、向って右手の小さな
観音像は、中央の観音像の膝辺り、左手のはそれよりやや大きいが、
やはり中央の観音像の腹部ぐらいの背丈である。この二体はいずれも
真っ黒になっている。まだ小さい方には顔の一部や体の一部に、ごく
僅かに金色が残っているが、もう一体の方は全身に煤が厚く塗られている。
この十一面観音様は、村の娘さんの姿をお借りになって、ここに
現れていらっしゃるのではないか。素朴で、優しくて、惚れ惚れする
ような魅力をお持ちになっている。野の匂いがぷんぷんする。笑いを
含んでいる様に見える口元から、しもぶくれの頬のあたりにかけては、
殊に美しい。ここでは頭に戴いている十一の仏面も、王冠といった
いかめしいものではなく、まるで大きな花輪でも戴いているように見える。
腕輪も、胸飾りもふんわりとまとっている天衣も、なんとよく映えている
ことか。それでいて、観音さまとしての尊厳さはいささかも失っていない。
しかし、近寄り難い尊厳さではない。何でも相談に乗って下さる大きく
優しい気持を持っていらっしゃる。恋愛の相談も、兄弟げんかの裁きも、
嫁と姑の争いの訴えも、村内のもめごとなら何でも引き受けて下さりそうな
ものを、その顔にも、姿態にも示していらっしゃる。
加山は実際に、石道の観音様からこのような印象を受けたのである。
渡岸寺の観音像からも大きな感動を受けたが、ここの観音像からも、
それに劣らぬ鮮烈な印象を与えられていた。二つの観音像は全く対照的であった。
一つは衆生の苦しみを救わずにはおかぬ威に満ちたものであり、
一つはどんな相談にも乗って下さる優しさに溢れている。
、、、、、
「なにしろ、お若うおすわ、この観音さんは。拝む度に若うならはってます。
口元を見なされ、お若うのうては、あんな口元でけしまへんが」
もう1人が言った。観音様もいいが、この女の人たちもいいと、加山は
思った。いかにもみなで、この十一面観音をお守りしている感じである。
観音様を褒められれば、みながわがことのように悦んでいる。
加山はもう一度、その若いといわれる観音像の前に立った。堂内の光線は
前の扉からのと、横手の扉からのもので、さして明るくも無いが、暗くも無い。
ほどほどのやわらかい光線が、小さなお堂の内部に漂っている。厨子の内部は
当然そこだけ暗くなっているが、十一面観音像の面には、さいわい正面の
扉からの光線が当たっている。
観音像の姿は若いが、しかし、造られた年代は、重要文化財の指定を受けている
くらいだから古いに違いない。像全体が元の彩色を失って、古色に包まれており、
その中で唇に残る微かな赤さが目立っている。あるいはこの唇の紅は、
長い年月の間に、誰かが観音像に化粧してあげたのであろうか。
気安くそんな事をする気を起こさせ、また気安くそんなことをお受けに
なりそうな観音さまである。

福林寺

やがて福林寺の前で車は停まった。道に沿って小さい門があり、その門から
二,三間隔たったところに小さいお堂が見えている。
新しい明るい部屋の中には、新しい須弥壇が置かれ、その上にすっくりと立った
十一面観音の姿が見られた。加山は収蔵庫の中に厨司が置かれてあり、
その厨子の中に観音像は収められているとばかり思っていたので、それが
いきなり眼の前に現れたときにははっとした。思わず息をのむような気持で
観音像を仰いだ。蓮の台座の上に立ち、頭光を背負うている。
「ご立派な観音様ですね」、、、、
顔と、体躯の一部は胡粉でも塗ったように白くなっているが、あとは漆地の
黒さで覆われている。天衣はゆったりと長く、宝瓶を持った左腕と、
下にさげている右腕にかけられている。顔はゆたかで麗しい。仏様と言うより
天平時代の貴人でも、そこに立っているような感じを受ける。
口元はぎゅっと締まって、意志的であるが、いささかも威圧感が無い。
「いいお姿でしょうが」
女の人が言った。讃仰というほかない言い方だった。確かに、いい姿だと、
加山も思った。豊麗な十一面観音像である。
加山は収蔵庫の中を、あちこち移動して、美しい十一面観音像を仰いだ。
渡岸寺の十一面観音、石道寺の十一面観音、いずれとも異なっている。
頭に戴いている十一の仏面はいずれも小さく、そのためか、天冠台から
上は本当に冠を戴いている様に見える。そして瓔珞をたくさん胸元に
垂らしているところなどは、やはり咲く花の匂うような天平の貴人が一人、
そこに立っている感じである。ひたすら気品高い観音像である。
「誰かが日の中から救い出したのでしょう、背中の方に火傷の跡があります」
その言葉で、加山は観音像の背後に回ってみた。なるほど背中の一部に
無残にも火を浴びた跡が残っている。
「大抵の観音様は、下に垂らしている右手が長いんですが、この観音様の手は
自然な感じです」
そういわれてみると、そうだった。渡岸寺の十一面も、石道寺の十一面も、
長い手を持っていたはずである。それに比べると、ここの観音像の右手は、
ゆるく折り曲げられてあるせいか、自然の長さに見える。


赤後寺(しゃくごじ)

内部には大きな厨司が置かれていた。厨司の前で、何分か経が読まれた。
その間、加山は閉じられている厨司の前に座っていた。
「この厨司は鎌倉時代のものです」
経を読み終わると、案内者は立ち上がって、厨司の前に進んだ。そして口の中で
何かを低く唱えながら扉を開いた。
「一昨年、重文に指定された十一面観音さまでございます」
加山がそこに見たものは、今まで拝んできた十一面観音とはまるで違った
ものであった。
厨子の中には二つの像があった。
「右手が十一面千手観音さま、左手が大日如来さまでございます」
加山は口から、すぐにはいかなる言葉も出すことは出来なかった。十一面観音
は頭上の仏面全部を失っており、左手七本、右手五本の肱から先の部分を
尽く失っている。無慚な姿と言うほかはない。大日如来もまた同じ様な
姿であった。加山は掌を合わせていた。そして、大三浦がこの席にいたら、
そうするであろうように、朝に、夕に、二つの無慚な姿の仏像が湖の方に
向いて立っていることに対して、感謝の思いを籠めて、頭を垂れた。
「このようなお姿ですが、お顔はなかなかご立派でございます。
先年専門家の人が見えまして、冴えた彫りの美しさを褒めておられました」
十一面の仏面で頭を飾り、腕の欠けた部分を補ってみたら、すばらしい十一面
千手観音が出来上がるに違いなかった。
遠い戦乱の日に、十一の仏面も失われ、腕も失われたのであろう。あるいは
また、兵火の難は一回でなかったかもしれない。今となっては、十一面観音
以外、それが通過した長い時間については、誰も知っていないのである。
やがて扉はしめられた。11面千手観音と大日如来の二つの像は再び厨子の内部
の闇の中に置かれた。

十一面観音について

十一面観音信仰は古い時代からのもので、日本でも八世紀初めの頃からこの観音像
は盛んに造られはじめている。この頃から十一面観音信仰はその時代の人々の生活
のなかに根を張り出しているのである。この観音信仰の典拠になっているものは、
仏説十一面観世音神呪経とか十一面神呪経とか言われるものであって、この経典に
この観音を信仰する者にもたらせられる利益の数々が挙げられている。それによると
現世においては病気から免れるし、財宝には恵まれるし、火難、水難はもちろんの
こと、人の恨みも避けることができる。まだ利益はたくさんある。来世では地獄に
堕ちることはなく、永遠の生命を保てる無量寿国荷生まれることが出来るのである。
また、こうした利益を並べ立てている経典は、十一面観音像がどのようなもので
なければならぬかという容儀上の規定も記している。まず十一面観音たるには、
頭上に三つの菩薩面、三つの賑面、三つの菩薩狗牙出面、一つの大笑面、一つの仏面、
全部で十一面を戴かねばならぬことを説いている。静まり返っている面もあれば、
憤怒の形相もの凄い面もある。また悪を折伏して大笑いしている面もある。
いずれにしても、これらの十一面は、人間の災厄に対して、観音が色々な形に
おいて、測り知るべからざる大きい救いの力を発揮する事を表現しているもの
であろう。
観音が具えている大きな力を、そのような形において示しているのである。
十一面観音信仰が庶民の中に大きく根を張って行ったのは、経典が挙げている数々の
利益によるものであるに違いないが、しかし、そうした利益とは別に、その信仰が
今日まで長く続きえたのは、頭上に十一面を戴いているその力強い姿ではないかと、
加山には思われる。利益に与ろうと、与るまいと、人々は十一面観音を尊信し、
その前に額ずかずにはいられなかったのであろう。そういう魅力を、例外なく
十一面観音像は持っている。
それは例外なく、宗教心と芸術精神が一緒になって生み出した不思議なものであった。
美しいものだと言われれば美しいと思い、尊いものだといわれれば、なるほど
尊いものだと思う意外仕方のないものであった。十一面観音の持つ姿態の美しさを
単に美しいと言うだけでなく、他のもので理解しようと言う気持が生まれたように
思う。そうでなかったら頭上の十一の仏面は、加山には異様なもの以外の
何者でもなかったはずである。それが異様なものとしてでなく、力強く、美しく、
見えたのは、自分がおそらく救われなければならぬ人間として、十一面観音
の前に立っていたからであろうと思う。救われねばならぬ人間として、救う
ことを己に課した十一面観音像の前に、加山は立っていたのである。


盛安寺

日吉神社の近くの盛安寺
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観音堂の前に立っていた。お堂の背後は直ぐに藪になっていて、丘の斜面でも
背負っている感じである。
10畳ほどの広さのお堂で,そのお堂いっぱいに大きな厨司が置かれている。
加山が厨司の前に座ると、その横に池野も座った。須弥壇は厨司にくっついて
いっしょに造られてあるが、扉を開けるには、その須弥壇の上に上がらなければ
ならない。加山は観音像を仰いだ。微かに笑っているようなふくよかな顔である。
眼はほとんど閉じられていて、二本の手は前で合掌し、その両手には天衣が
かけられてある。その手とは別にもう二本の手があって、片方は杖を、片方は
蓮を持っている。頭に戴いている仏面のうち頂上面だけが高い。以前は勿論
彩色してあったものであろうが、もとの色は判らず、古さだけが像全体を
包んでいる。加山は。いま眼の前にある観音像を、自分がこれまで見た同じ
湖畔の他の四体の像と比べることはできなかった。他の四体も、それぞれに
良かったが、これはこれでまたすばらしいと思った。観音様の微笑を含んでいる
顔を仰いでいると、自然にこちらも微笑せずにはいられなくなる、そんな
感じである。


宗正寺

外観は壊れかかったような小さなお堂であるが、内部に入ってみると、新しい
畳が敷かれて、きれいに掃除されいる。正面に厨司があり、厨司の左右は床に
なっている。そして厨司の前だけ五畳ほどが板敷きで、それ以外は畳敷きである。
、、、、その言葉で、加山は厨司の前の板敷きところに座った。
厨司の扉が開けられると、殆ど天井に届きそうな大きな光背を背負った十一面観音
像が現れた。大きな蓮台の上に乗った坐像である。像の高さと、蓮台の高さは
同じぐらいであろうか。
像は全体が漆で黒々としている。唇だけが僅かに赤く、眼には玉が嵌められてあって、
それがきらりと光っている。
「端正なお顔ですね」
加山は言った。頭上の十一の仏面は小さいが、その割りに高々と置かれてある。
それがこの観音様を端正なものに見せている。左手は軽く折って宝瓶を、
右手はゆったりと膝の上にのびて、掌はこちらに向って開いている。
「良く知りませんが、室町時代に造られたものではないかといわれております。
大体、いまはこの観音堂だけになっておりますが、宗正寺と言う寺は天平九年
の開基でして、一時はなかなか寺運旺盛で、頼朝の時には仏供料が寄進され、
建物も豪勢なものようでした。それが織田氏の兵火でやかれました。、、、
「四十何体か、あると言ったね」、、、、
「別に動機なんかない。偶然のことから一、二体拝んだら、何と無く後を引いて
ほかのも拝みたくなった」
「君の場合、信仰と言うものとは、ちょっと違うような気がするんだが」
「そう。信仰とはいえない。こういうのを信仰だと言ったら、観音様が怒るだろう」
、、、、
「僕の場合ははっきりしている。あのような庶民的な十一面観音像にお目にかかった
のは初めてのことなんだ。君の話からすると、どうも湖畔の十一面観音像は、
みんなあのような美しさをもっているのではないかと思う。地方造りのよさ
なんだな。それで、できるなら、それをスケッチしてみようと言う気になった」


下巻
高月の充満寺

やがて、車は国道から左に折れて、湖畔の平原の中に入って行く。山に突き
あたったり、山裾を回ったり、山を越えたりする。そして、車が停まったのは、
山裾の小さな集落の中の寺の前であった。大きな山門のある立派な寺であった。
寺からごく近いところに広場があり、そこに小さなお堂が二つあった。一つは阿弥陀堂
一つは薬師堂で、十一面観音は薬師堂の方に入っているということであった。
二つのお堂はいずれも雪を防ぐためか薦こもで囲いがしてあった。
正面にお厨司が見えている。総代さんはまたお厨司の扉を開けてくれる。二体の
仏像が並んで立っている。いずれも等身大である。
「右は薬師如来、左は十一面観音です」
住職が説明してくれる。
加山はさきに薬師如来立像を拝んでから、十一面観音像の前に立った。がっちりした
体格の観音様である。頭の仏面は小さく、しかも煤けて真っ黒になっており、
ほとんど彫りや刻みは判らない。いつか体だけが漆で塗られたらしく、体だけが
黒く光っている。顔も堂々としており、胸のあたりも、僅かに捻った腰も堂々
としている。
「なかなか立派な観音様ですね」
加山が言うと、
「この観音様をお守りしていますと、他の観音様が貧弱に見えて来てこまります。
何しろ、胸も厚いし腰まわりもみごとです」
「いつ頃のものですか」
「藤原時代の作だということです。大正15年に重文に指定されています」、、、
「この二体の仏像ももとは泉明寺と言う大きなお寺にあったものらしゅうございます」


医王寺

車を降りたとき、加山は淋しいところへ来たといった思いを持った。付近には
何軒か家もあり、車の走る道もあり、別に人跡稀な土地へ入ったわけではないが、
何と無くひどく淋しい所に来たような気持になった。どうしてそういう気持に
なったか、直ぐには判らなかったが、橋を渡って、観音堂のある方に歩いていく時、
「あれ、野分でしょう」
加山は足を停めた。遠くに風のわたる音が聞こえていて、こんなところに淋しさの
原因があるのかもしれないと、その時加山は思った。
「いつか風が出ているんですね」
沢山もまた足を停めて、風の音にみみを傾けている。二人が立っている道の両側に
は大きな薄が密生していて、その枯れた茎がいっせいに風に揺れ動いており、
何と無く茫々としたとりとめのない感じである。
やがてお堂の扉が開けられ、みんな堂内に入った。正面に須弥壇が設けられてあり、
その前は畳敷になっていて、十七、八枚の畳が敷かれている。
腰ぐらいの高さの須弥壇の上に、お厨司が置かれてあり、すぐ扉が開かれた。
「ほう」
加山が思わず感歎の声をあげると、
「きれいな観音様でしょうが」
と厨司を開けてくれた人物が言った。
「若くてきれいですわ。きれいなくらいですから、おしゃれです」
「いいお顔をしていらっしゃる」
加山が言うと、そばにいた沢山が、
「人間にはありませんな、これだけの美人は」
と言った。確かに端麗な顔の十一面観音様である。等身大よりやや小さいが、全身を
いろいろな飾り物で飾ってある。胸飾りも多いし、頭飾りも多い。歩き出したら
あらゆる飾りが鳴り出しそうである。
棟の膨らみはほとんどなく、総体にきりっとした体つきで、清純な乙女の体が
モデルにつかわれてでもいそうに思われる。以前は全身金色に輝いていた
のであろうが、いまは大部分が剥げて黒くなっている。あるいは護摩の煙で
黒くなったのかもしれない。
観音堂は昭和五、六年に建てられたものらしく、それ以前は十一面観音は医王寺
のほうに祀られてあったという。、、、
たくさんの装身具を頭や胸につけた乙女の観音様を拝むのは、光と春風のもとが
一番いいに違いないと思われる。


善隆寺
目指す善隆寺という寺は山際にあって、付近は藁屋根の農家が点々としている。
身長1メートルの小振りな観音像である。頂上仏は大きい。住職の説明によると
平安時代の檜材一木造り、頭部に戴いている仏面の一つは欠けており、重文の指定
は対象十五年であるという。決してすらりとした感じの観音様ではない。
ずんぐりして、がっちりした体つきである。横手に回ると、これこそ日本で、
しかもこの地方で造られた観音様だという気がする。顔も健やかで福々しい。
「腰はほとんど捻っていませんね」
加山がいうと、
「腰を捻るなんて嫌いなんでしょうな。この観音様は」
沢山が言った。そういわれてみればそうかもしれないと思う。飾り気と言うものの
全くない質実な美しい女体を、この観音様は持っておられる。

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