2016年1月28日木曜日

白洲正子近江山河抄より

滋賀における探訪については「隠れ里」と供に、この山河抄が
詳しく書かれているが、特にここ中の「比良の暮雪」の章には、
志賀周辺の40年前の姿が描かれている。十一面観音についてはほとんど
触れられていないが、現在の状況とあわして、見ると中々に面白い。
この中で、「やはり美術品は、特に信仰の対象となるものは、祀られている場所
で見るに限る。見るのではなく、拝まなくてはいけないだろう。祈らなくてはいけないだろう。
観音寺のような寺に詣でると、私みたいな信仰のないものでも、しぜんそういう気持に
なって来る。、わが立つに杣に冥加あらせ給え。」
のフレーズは十一面観音を拝するときの心としても重要と思う。

1)比良の暮雪から
ある秋の夕方、湖北からの帰り道に、私はそういう風景に接したことがあった。
どんよりした空から、みぞれまじりの雪が降り始めたが、ふと見上げると、薄墨色
の比良山が、茫洋とした姿を現している。雪を通してみるためか、常よりも一層大きく
不気味で、神秘的な感じさえした。なるほど、「比良の暮雪」とは巧い事をいった。
比良の高嶺が本当の姿を見せるのは、こういう瞬間にかぎるのだと、その時
私は合点したように思う。

わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ(さかりさ)夜更けにけり

比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、その裾に
重なるようにして、比良山が姿を現すと景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、
これは陰の山と呼ぶべきであろう。、、、、
都の西北にそびえる比良山は、黄泉比良坂を意味したのではなかろうか。、、、、
方角からいっても、山陰と近江平野の間に、延々10キロにわたって横たわる
平坂である。古墳が多いのは、ここだけとは限らないが、近江で有数な大塚山
古墳、小野妹子の墓がある和邇から、白鬚神社を経て、高島の向こうまで、大
古墳群が続いている。鵜川には有名な四十八体仏があり、山の上までぎっしり
墓が立っている様は、ある時代には死の山、墓の山、とみなされていたのではないか。
「比良八紘」という諺が出来たのも、畏るべき山と言う観念が行き渡って
いたからだろう。が、古墳が多いということは、一方から言えば、早くから
文化が開けたことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。小野氏が
本拠を置いたのは、古事記によると高穴穂宮の時代には早くもこの地を領していた。
、、、、、
小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。
小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫っていく。
ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は「比良の大和太」
と呼ばれた。小さな川をいくつも越えるが、その源はすべて比良の渓谷に
発し、権現谷、法華谷、金比羅谷など、仏教に因んだ名前が多い。、、、、
かっては「比良3千坊」と呼ばれ、たくさん寺が建っていたはずだが、いまは
痕跡すら止めていない。それに比べて「小女郎」の伝説が未だに人の心を
打つのは、人間の歴史と言うのは不思議なものである。

白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水のなかに
はみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんな
ゆったりした趣きはここにない。が、それははみ出たわけではなく、祭神が
どこか遠くの、海かなたからきたことの記憶に止めているのではあるまいか。
信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も行き続ける。
そして、復活する日が来るのを域を潜めて待つ。と言うことは、
形がすべてだということができるかもしれない。
この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
祭神は猿田彦ということだが、上の方には社殿が3つあって、その背後に
大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まで張ってあるんのは、ここが
白鬚の祖先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように半ば自然に還元
したものと違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、
黄泉の国へ、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして
思い出される。山上には磐座らしいものが見え、明らかに神体山の様相を
呈しているが、それについては何一つ分かっていない。古い神社である
のに、式内社でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦命
は、比良明神の化身とも言われるが、神様同士で交じり合うので、信用は
おけない。
白鬚神社を過ぎると、比良山は湖水すれすれの所までせり出し、打下
(うちおろし)という浜にでる。打下は、「比良の嶺おろし」から起こった
名称で、神への畏れもあってか、漁師はこの辺を避けて通るという。
そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に
花を添えていた。入り口には、例によって古墳の石室があり、苔むした
山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言う
よりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが
野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。この
石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の
菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに
なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは良く見る風景だが、
ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージと重なって、
いよいよ黄泉への道のように見えてくる。

2)日枝の山道より
日枝の神体山がある。
この山は、八王子山、牛尾山、または、小比叡の山とも呼ばれる。
神社に向かってやや右手の方向にそびえているが、大比叡のひだに隠れて
三上山ほろ歴然としていない。が、神体山に特有な美しい姿をしており、
頂山に奥宮が建っているのが、遠くからも望める。そこには、大きな磐座
があって、その磐を挟んで2つの社が建っているが、これは、後に造られた者で
大和の三輪と同じ様に、初めは、山とその磐がとが信仰の対象であった。
、、、、、古事記によると大山昨神を祀り、奥の磐座は玉依比売(たまより
ひめ)の御陵であるとも言う。周囲に古墳が多いのもみても、先史時代からの祖先の
奥津城(おくつき)であったことが分かる。
、、、、、
ふつうは二の鳥居からまっすぐ登って、西本宮へお参りするのが道順だが、
先生はまず東本宮に連れて行ってくださった。この神社は、小比叡の麓にあり、
したがって少し横道に逸れるが、日吉大社の元は実はこちらのほうにあるので、
西本宮は天智天皇が近江に遷都したとき、大津の京の鎮護のために、大和の
三輪神社を勧請されたと聞く。美和の祭神は、大物主で、日吉における神格
はそののち大山昨より遥かに上になったから、いわば、庇を貸して母屋を取られる
結果となった。

ささなみの国つみ神のうらさびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
(万葉集)
大津の京が滅びたというのは、近江の国つ神に見放されたというのだが、
それが当時の人々の本当の気持だったにちがいない。、、、、
本殿に向かって左側に「樹下社」という摂社があるが、先生によると、これが
日吉信仰の原点で、玉依比売(たまよりひめ)を祀ってある。この社は、
本殿に直角ではなく、ほんの少し右へ振っているとのことだ。その背後には、
小比嬰の山がそびえており、神体山の稜線にそうためには、社殿の位置を
少しずらさねばならない。他の摂社、末社は整然と並んでいるのに、これは、
いかにも不自然に見えるが、そんな無理をしてまでもとの形を残そうとしている
のは面白い。、、、、、、、
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社殿の下には「亀井」と名づける神泉があって、そこから流れ出る水が廻り
廻って大宮川に合し、末は田畑をうるをして行く様は、さながら古代信仰
の絵文様を見る想いがする。神社には山王曼荼羅とか春日曼荼羅と言って、地図
のような絵が沢山残っているが、なぜあんなものが信仰の対象となり得るのか、
私には不可解であった。が、今は幾分分かったような気がする。日本人にとって
自然の風景と言うものは思想をただし、精神を整える偉大な師匠であった。
そして、その中心となる神山、生活に最も必要木と水とを生む山が女体に
たとえられたのは当然であろう。玉依比売という名称は日枝に限るわけではないが
おそらくヒミコのようなシャーマンで、ヒミコがヒエヒメと呼ばれたのではないか
ヒエの語源は分からないけど、古事記には「日枝」と書き、比叡に転じて
行ったらしい。
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神社ができるのはそれ以後のことだが、景山説によると、山上の「奥宮」、山下の
「里宮」、平地の「田宮」と、三段階に分かれるのが、古代信仰の形式である。
それはたとえば、宗像神社の「奥津島」「中津島」「辺津宮」に相当するもので、
陸地の場合は、島ほど区別がはっきりせず、日枝の奥宮はもっと上のほうにあったと
も考えられる。境内のなかをあるいてみると、摂社、末社だけではなく、いたるところ
に磐座や神木が祀られていることに気がつく。それをそのまま日吉大社が経てきた
歴史であり、日枝にいます神の分身でもある。
いわゆる比叡山は、小比叡に対して大比叡とも呼ばれているが、どちらが先に神山
とみなされたか、今は知るよしもない。が、三上山や三輪山の例を見ても
分かるように、まず里に近いこと、紡錘形の美しい姿をしていること、川がそばに
あって「神奈備」野条件を備えていることが、神体山の特徴といってよい。
してみると、小比叡のほうが相応しいということになるが、常識から言っても当時
の大比叡は、原始林におおわれた深山で、巫女がこもることなぞ思いも寄らなかった
に違いない。
その男性的な山容を意識し始めるのは大山神を勧請した頃のことではなかろうか。
そんな事を想像しながら、眺めていると優しい姿の小比叡の山を抱くようなかっこうで
立つ大比叡は、似合いの夫婦のように見えてくる。
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日吉大社の大祭は、四月半ばに行われる。それより以前、「如月、中の申の日」に、
2基の御輿を神体山へ担ぎ上げる。御輿は山上の奥宮に安置されたまま一月半を
すごすが、灯明を上げるのはその間のことである。、、、、、、
そして「卯月、中の午の日」の夜、いよいよ御輿が山下へ降りる。これを
「御生祭り(みおれ)」
ともいい、新しい山霊、もしくは稲魂が、生まれるための準備行動である。、、、、
かくして荒御魂(あらみたま)は和御魂(にぎみたま)に生まれ変わる。
その時ささげる神饌を「未の御供」といい、様々な御供えに混じって、若宮のために
人形や造花、文房具の類まで見出されるのは面白い。日本の祭りは象徴的な
ように見えても、実は大変具体的なのである。そうして新しい魂を得た神霊は、
再び、山へ戻って行くが、引き伸ばして考えれば、大嘗祭にまで共通する
農耕民族の祭典で、度々述べたように、それは、一種の若返りの思想ともいえる。
祭りと供に、日吉大社で有名なのは、石垣が美しいことである。、、、、、、、
穴太の山中には景行天皇から3代にわたる皇居の跡があり、現在は「高穴穂神社」
と呼ばれるが、その辺から滋賀の里へかけて一大古墳群が続いている。、、、、、
近江には佐々木貴の山君という陵墓造りの専門かもいたし、石仏や石塔が多いことも
前に述べた。それは後世の石庭にまで、一筋につながる伝統で、太古の磐座から
現代の石造彫刻に至るまで、日本の石はその都度姿を変えて生きながらえてきた。
その功績の大部分は、近江にあるといっても、過言ではない。

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私が入り立つ杣山。私が住む杣山。
出典新古今集 釈教
「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の仏たちわがたつそまに
冥加(みやうが)あらせたまへ」
[訳] 全知全能の御仏たちよ。私が入り立つこの杣山に仏の加護をお与えください。
②比叡(ひえい)山の別名。◇①の用例にあげた、伝教大師最澄(さいちよう)
が比叡山根本中堂を建立したときに作った和歌から。


やはり美術品は、特に信仰の対象となるものは、祀られている場所で見るに限る。
見るのではなく、拝まなくてはいけないだろう。祈らなくてはいけないだろう。
観音寺のような寺に詣でると、私みたいな信仰のないものでも、しぜんそういう気持に
なって来る。、わが立つに杣に冥加あらせ給え。
観音寺から私たちは、湖水のほとりへ出た。長浜の北に、早崎という竹生島の遥拝所
があり、そこから入日を見るといいと勧められたからである。が、秋の日の習いとて、
行き着かぬうちに暮れかかった。で、長浜城跡から拝んだが、あんな落日は
見たことがない。再び見ることもないだろう。
向かい側は比良山のあたりであろうか、秋にしては暖かすぎる夕暮れで、湖水から
立ち上る水蒸気に、山も空も水も一つになり、全く輝きのない太陽が、鈍色の雲の
中へ沈んでいく。沈んだ後には、紫と桃色の横雲がたなびき、油を流したような
水面に影を映している。わずかに水面と分かるのは、水鳥の群れが浮いていたからで、
美しいとか素晴らしいというにはあまりにも静かな、淀んだような夕焼けであった。
何時間そこに立ち尽くしていたか、もしかすると数秒だったかもしれない。
こう書いてしまうとなんの変哲もないが、実はその前日、私は京都の博物館で、
平家納経を見ていた。その中に、今日の落日と寸分たがわぬ景色があった。
銀箔がさびて、微妙な光彩を放つ中に、大きな太陽が浮かんでいる。紫と桃色の
雲が経巻の上下にただよい、小鳥の群れがその中を飛んでいく。風もなく、
音もない。
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恵心僧都が感得したのは、横川であるとも、居室谷の安楽律院とも、坂本の
聖衆来迎寺だったとも、伝えられている。が、ひとたび、感得すれば、二度と
消えうせる映像ではないから、どこと定めるにも及ぶまい。それより彼が
横川から飯室谷、更に平地の来迎寺へと、だんだん下がってきたことの方に
私は興味を持つ。sッそれは、日枝の神霊が、奥宮、里宮、田宮と順々に
降りてくるのに似なくもない。浄土の思想を広めるために、必要上そうなった
ともいえるが、最澄が日枝の山霊に救いを求めたように、源信の中にも、
古代の神が辿った道が根強く生きていたに違いない。横川は、比叡山三塔
の1つで、比叡連邦の北の外れにある。最澄の弟子の円仁が開いた寺で、
「根本杉」と呼ばれる大木の根元に草庵の跡が残っている。
その近くに、「如法水」という泉が懇々と湧き出ている。

指摘するまでもないがここにも、古代信仰の木と石と水が仏教の木と水が仏教の
遺跡と化して伝わっているのを見る。、、、、、、

ほとんど新しいモノばかりだが、杉並木の参道を行くとそぞろに昔の面影が
偲ばれる。円仁の死後は、天台密教の中心となり、次第に発展して行ったが、
中でも、慈恵大師は、叡山中興の祖と仰がれ、民衆の間に信仰を広めることに
努めた。、、、、、、、
恵心僧都の墓所は、そこから反対側の南の谷間にある。ここも、決して気持の
いい場所とはいえないが、老杉の木の間を通して、琵琶湖が望まれ、三上山が
秀麗な姿を見せている。こちらが暗いだけ、向こう側は目覚めるような景色で、
三上山に月が昇るときは、さぞ、美しいことと想像される。
そこから飯室谷へ一気に下る急坂がある。「元三大師みち」という石票があり、
2キロあるというが、瞬く間に滑り落ちてしまう。うっそうと茂った木立の中に
不動堂と慈忍和尚の廟がたち、私が行った時には、真っ赤な落椿が、苔生した石垣を
染めていた。恵心僧都が隠棲した安楽律院は、飯室谷のつづきの安楽谷にあり、
谷から山へかけて、石畳の参道が続いている。琵琶湖も三上山も、横川と同じ位置に
眺められ、僧都が常に湖水の自然とともに生活していたことが分かる。
飯室谷へは坂本の西教寺からも仰木も車でいけるが、少々苦しくても、横川から
下ってみないことには半分の価値もない。感無量寿経も法華経も、私の理解を
超えるが、近江の自然は、理屈ぬきで、浄土への世界へ誘ってくれる。
聖衆来迎寺は、そこから更に下った下坂本の田圃の中にある。、、、
寺伝によると伝教大師の草創で、恵心僧都がここで弥陀来迎を感得し、今の名前に
あらためたという。建築や宝物に見るべきものは多いが、中でも有名なのは、
「往生要集」に測った「10界図」で、、、、その図をかけて「絵解き」を
行う。
来迎寺から坂本にかけては、浄土信仰がくまなく行き渡っており、再教寺もその
1つである。密教寺院のおごさかなのに比べて、心休まるものがあり、この寺にも
明るい空気が流れている。
西教寺は一時荒廃していたのを、室町時代の真盛上人が再興し、現在は「天台
真盛宗」と呼ばれている。いつ行っても本堂の中から、念仏の声が聞こえてくるが、
これを「不断念仏」と称し、近所の信者たちによってつづけられているという。
本堂の正面には、1万日ごとに建てた石碑が残っており、最近17万日の碑が
建った。1万日といえば27,8年になり、17万でちょうど室町時代に遡る。
それらの碑は真盛上人の回向のために建てられたものであり、実際には平安時代
から続いていたのであろう。驚くべき信仰の強さで、比叡山の奥深さを物語っている。
ここで人の心をひくのは、石垣の上に並ぶ石仏群である。銘文によると、天正
12年、栗太郡のなにがしが自分の娘の菩提を弔うために建てたものとかで、、、、、。
最澄の創建による比叡山寺は、ささやかであったが、三千世界の中心をそこにおこうと
する、遠大な理想を秘めていた。それだけ、教義は複雑を極め、顕密二教を元と
して、禅宗から浄土宗に至るあらゆる萌芽を含んでいた。その中から、法然、道元、
日蓮、親鸞など数え切れない名僧を輩出したが、「伝教大師」という称号は、
いかにも、そういう始祖にふさわしい。伝教大師、弘法大師と並び称されるが、
2人の性格は正反対であったように思う。

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